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2004年1月に作成された記事

「デザイン」違い

どうやら世間一般で使われている「デザイン」という言葉の指すところが、私の認識とズレている。
ファッション雑誌でさえ、「機能を選ぶかデザインを選ぶか」みたいな見出しが当たり前。デザインは「飾り」だったり「絵」ということらしい。

本来、機能のないデザインはデザインとは言えない。そもそも、モノのカタチは機能の表れ。その結果が「ビジュアル」にしか過ぎず、機能+美=デザインといってもいい。外装にしか過ぎないデザインは、単にデザインの失敗作だ。

若い人たちと話をしていると、アートとデザインの定義も揺らいでいる。自己表現と、目的意識や計画性のあるデザインは違うもの。その境界線に明確な「ここから〜ここまで」というものをいい表すことは難しいが、それらが同居したものを生み出すことはできるのだ。

相手が語る「デザイン」を、私の頭の中で意味変換する場面がすっかり多くなった。やれやれ。

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きっと「愛しかった」のだと思う

今日は持病の定期検診で病院で半日くらい過ごした。
年が明けて初日の外来日だったので、病院内は多くの人で溢れていた。検診の予約時間を大幅に過ぎ、気分転換にと思って病院内を歩き出す。はじめは院内の売店をふらついたりしていたが、そのうち併設されてる医大キャンパスへ入り込む。大学生はまだ冬休み。人の気配が少ない校舎をぶらぶら歩いて時間を潰す。

病院の外では献血を呼びかける声。大学職員が献血の列を作っている。その横を通り過ぎて再び病院内に戻ってくる。だけど、まだ私の名前は呼ばれない。あまりの退屈さに、だんだん不機嫌になってくる。大きな窓ガラスを背にして寄りかかって待っていると、背中がだんだん熱くなってきた。ちょうど光が差し込む位置にいた私は、窓の外をふと見上げる。目に映ったものは病棟の窓。この角度から見た絵、私には見覚えがある。その瞬間に記憶がフラッシュバックする。

病気で亡くなった「特別な彼女」を思い出すときは、10年以上の時間が経っていても、いつまでもその時のまま。その昔に見た同じ風景は、まるで誰かが勝手に私の引き出しを空けて記憶を取り出したようなもの。あっというまに気分が感傷的になってしまった。それから病院内をゆっくり再び歩き出す。記憶を引き出すように1歩ずつゆっくり足を運んで行く。

目に映る昼間の明るい病院が、私の心の中では、あの頃一緒に歩いた夜の病院の風景と重なり合う。人がたくさんいる現実の待合室の風景も、私の中ではかき消され、記憶が勝手にリプレイされる。用もないのに手術部の前まで足を運んだり、呆然と通路の真ん中にしばらく立ちすくむ行動をしたりと、まるで夢遊病者。自分でも「どうかしている」と思っていた。その場所での記憶が私に涙を浮かべさせる。もう慣れたと思っていたのに、どうやら違っていたみたいでショックを受けた。

風邪を引いたせいか、ここ1、2日ほど指がむくんだようで指が曲がりにくい。指の力が入らず、思うように動かせない。そんな自分の手を待合室でじっと見つめる。もう片方の手で指をなでたりしながら触っている感覚を確かめる。前にもこんなことがあった。でも、なぜあんなことをしたんだろう。そう思うと、記憶が再びフラッシュバックして、瞬間的にわかってしまう。あのときわからなかったことが、どうして今になってわかってしまうのだろう。

彼女が「指に力が入らなくなっちゃうよ」と言って、病気がひどくなるとこんな手になるのと、ちょっとうつむき加減で差し出した両手の甲。それを自分の未来の姿として見た私はその手を受け取った。しばらくの間、お互いの手を撫でていた。そのときの私はよくわからなかったけど触っていたかったんだ。理由なんてないと思っていたのだけれど。

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