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迫られるのは「個人の選択」

「あの人は、ゼロか100しかなく、中間がないんですよ…」
福島県の南相馬市のある住民から聞いた、俳優・山本太郎の印象はあまり良くないものだった。生まれ育った土地に家族と一緒に残ることを決めた彼にとっては、当たり前の話なのかもしれない。実はかくいう私も、良くない印象を持ったひとりなのだけど、その理由が今まで自分でもわからなかった。
だけど、その彼の言葉に「あ、だからそうなのか」と妙に納得。というか、目からうろこが落ちる思い。そんな簡単・単純な二者択一の問題ではないんですよね……。

勿来の火力発電所

福島県の場合、脱原発か否かの問題より、放射線に関する意見対立の方が問題。ハッキリしたことが何もわからないものだから、それは余計に深刻です。そして、放射能汚染だけでは語れない、多くのリスクを住人たちは抱え込んでいるのです。

簡単に言えば、それは放射線による健康被害のリスクだけでなく、仕事を失う、住むところを追われる、家族離散のリスクなど。リスク(危険性)でなく、クライシス(危機)という方がしっくりくるかもしれません。

福島県で今も(これからも)住人たちに迫られる問題は、放射線のリスクだけでは語れない、「個人の選択」の問題です。なぜ今もそこにとどまるのか──。「ゼロか100かでない」人たちもいることを、わかって欲しいし、感じて欲しいと思うのです。。。

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【特設】東日本大震災の爪痕」カテゴリの記事

コメント

東日本大震災のページを見させていただきました。
震災があってから福島県から外に出ておらず、八戸市にも津波の被害があったことに驚いています。

福島県民の私は、山本さんの発言・行動に怒りをおぼえています。
福島県といっても広いのです。福島全体を「超高濃度汚染地域」だなんて・・・ひどすぎる話です。山本さんの広めた風評被害に苦しんでいます。
必死の思いで復興に向けて皆がんばっているのに。

山本さんが得ている放射線に関する情報は、反原発団体からの情報に偏っています。放射能の専門家、がん研究機関などからの情報は無視です。

私は政府や東電の発表している放射線値など更々信用していません。学校など至る所で自分達で計測しています。その数値は、「問題のない数値」「自然界に元々、これぐらいの値は国によっては計測されている値」です。

「福島のこどもたちを守りたい」が「福島のこどもたちを苦しめてる」ことにも気づいてほしい。山本さんの行動は結果として「脱原発」のために「福島には風評被害で犠牲になってもらおう」だと受け取っています。

投稿: kibou-toridekaori | 2012/01/02 14:28

kibou-toridekaoriさん、こんちは!
正直、どうコメント返したらよいか、ちとばかり悩みました。

山本太郎に限らず、いわゆる有識者といわれる人たちが、
たとえば「政策論」や「学術論」、「技術論」に終始して、
知識や論だけが舞い上がる状況というのはツライですね。
(有識者=専門家の議論・話し合いですから、仕方ないですけど)
そこで暮らしている人たちの心情が、ないがしろにされている
気がして、つい感情的になってしまう自分がいます。

発する言葉が、論理や整合性だけで語られて、
その言葉がいつの間にか「ひとり歩き」を始めてしまうと、
何か圧迫感のようなものを感じて苦しくなります。
そこで暮らす人を無視して語られる合理的な方法論や解決方法では、
たくさん絡む問題をほどくことはできないと思うのです。。。


投稿: 濱祐 | 2012/01/03 13:58

南相馬に残った住人です。
こちらのブログの情報はある人に教えてもらいました。

放射能について何もわからなかった私たちは、
たくさんの知識を手に入れようと努力し、
今暮らしている多くの人たちは、一定量以上の被曝をしなければ
リスクを回避できる、下げられると自覚しています。

反原発だろうと、放射能汚染をどれだけ恐がろうと、
それはその人の勝手だけれど、福島に住む私たちを無視して
「住んじゃいけないところに住んでいる人たちは、
即刻移住させるべきだ」と声高に叫ばないで欲しい。
何を根拠に危険性をそれだけ叫べるのだろう...。

今でも多くの人たちが福島県になんで残ったのか、
ちょっとでも考えてくれたらいいのにと思います。

投稿: Anastasiya | 2012/03/27 10:02

Anastasiyaさん、こんちは!
どなたから教えてもらったのか、ちょっと気になってます(笑)。

放射能の脅威が身近な人と、そうでない人との差が、
1年経ってハッキリしてきたなーと私も感じています。

同じ「不安」であったとしても、わからないことをそのままに
してきた人たちのそれと、Anastasiyaさんのものは全く別物。
不安の「質」がきっと違っていることでしょうねぇ。。。


投稿: 濱祐 | 2012/03/28 00:07

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