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2012年8月に作成された記事

津波に襲われた福島のこと

放射能ばかりで「津波に襲われた福島」のことは、あまりニュースでは伝えられていなくて、現地へ足を運ぶ者としては、それがとても気がかりです。というわけで、今回は写真多めで、震災から間もなく1年半後を迎える被災地の様子をレポートいたします。

震災から1年半後の福島県新地町

写真は7月末に訪れた福島県新地町の釣師浜の様子。ここは海岸沿いの町ですが、以前ご紹介した宮城県の女川町雄勝町の様子とは大きく違うことがわかるでしょうか? 「復興」なんて言葉にはほど遠く、ほとんど手つかずのままです。。。

震災から1年半後の福島県新地町

津波にあってから、道を通れるようにしたり、移動可能ながれき類は片付けられましたが、折れた電柱などは撤去されずそのまま。アスファルトの道も剥がれたまま。。。

震災から1年半後の福島県新地町

この先には地元漁協の港と海水浴場へ続く道があったのですが、津波によって道は途中で寸断されていて先には進めません。路肩が崩れ、その下には「川のようなもの」が見えますけど、これは津波でえぐられて出来た「潮だまり」で、もともとあったものではありません。。。

津波によって破壊された防潮堤

寸断された道の突端から撮った写真。左側が潮だまりで右側が海。その間にあるのは津波の破壊力を物語る崩れた防潮堤です。震災から1年半近く経つというのに、まだこの状態。。。

震災から1年半後の福島県新地町

同じく寸断された道の突端から潮だまりがある内陸側を撮った写真。ボロボロの電柱と背景の景色に無常感が漂います。津波に襲われる前の景色は、無論、もともと野原ではなく、人の生活があった町だったのであります。。。

震災から1年半後の福島県新地町

福島県に関しては、原発事故や放射能のことばかりで、津波被災地であることが忘れられている昨今。津波に襲われた福島のことも忘れないで欲しいと思います。。。

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原発事故後の世界から学んだこと

警戒区域の表示

ささやかながら意思表明というか、今まで現地を行き来して見てきたこと、お盆の期間中に自宅へ帰ってちょっと考えたことなどを、自分の中で明確にしたいがために、頭の中を整理するつもりで書いてみた。

以下、出だしがちょっと怒っているのは、現地で心ない言葉で書かれたFAX文書が突然送られてきて、これを目にした人が傷つく瞬間を見てしまったから。「毎度のこと」とその人は言うけど、批判にも値しない誹謗中傷はよろしくない。そもそも、相手を貶めるような言葉は、自分自身も貶めることに繋がるのだけどねぇ。。。(←ちょっと貶めてみましたw)

***********************

原発事故後の世界であっても、そこで懸命に生きようとする人たちに対してエールを送らず、わざわざ非難の声を届ける無神経な者たちの存在を私は許せない。嫌いな原発を無くすために、さらなる犠牲を強いる無責任な声を私は決して認めない。

生きることで抱く不安や苦痛、苦悩や絶望や憎悪、そして生きるものが逃れられない「死」への恐怖。原発事故による放射線の「死の恐怖」は恐れるほどに増大し、やがてそれを認めたくないという苦痛を与え、放射線防護をしながら生きることを選択した人たちへの嫉妬へと変化する。

やがて、自分の中に増大した放射線への恐怖を止めることは不可能と考え、その恐怖から自分自身を救えるのは原発事故によって拡散された放射性物質の拒絶と排除。つまり、自ら生み出した恐怖に負けた者は、それに対抗して生きようとする人たちを含め、それらを拒絶することで「自分も救われる」という結論に至ったのかもしれない。

だが、それはただの言い訳、認めて欲しい理由なだけではないだろうか?

警戒区域を解除された町

彼らからすれば、拒絶する対象がすべて無くなってしまえば、恐怖する必要がなくなる、という論理なのかもしれない。放射線防護をされて、結果、生き続けられてしまうと、あらゆる目標を達成できないリスクが高まって困る(恥ずかしい)、ということなのかもしれない。

放射線防護をする側は、それによって生きる希望がある限り、許される範囲内で日々学び、実践しているだけなのだが。今はそれが、ほんのわずかな希望だとしても。

除染作業中の旗

苦しみながらも生きていこうとするのは、生きる希望という「不治の病」に冒されている証だと、彼らはそこまで言ってしまうのかもしれない。やがて私たちと同じように無理だと悟って恐怖に屈し、拒絶の結論を得るに違いないと。
恐怖の対象である放射線とその源をすべて無くすということは、はじめから存在しなければよかったもの。放射性廃棄物の処理や核の再処理・リサイクルまでも含めて、原発に関わるものの存在は、すべては矛盾でしかないと──。

この闇は深い。自ら生み出した「死」の恐怖に負けた感情と思考が連鎖して、負のスパイラルが大きくなっていく。自らの足で闇の螺旋を下りていくかのように。

夕暮れの避難指示区域

……ふと思った。
私がもし彼らの立場だったら、自分も同じ行動を取らなかったとは言い切れないなと。

放射線防護を意識するような場所から遠く離れた彼らと違って、たまたま近いところにいる私は、原発事故後の世界の真実を知ったとき、その現実を受け止めて、ここで生きよう、と決めた人々をこの目で見てきた。少なくとも“生きる”ことの大切さを、この人たちの姿から私は学んだような気がしている。

だから余計に、原発事故後の世界であっても、なおも愚直に残って懸命に生きようとする人たちを非難する者たちは許せないのかもしれない。嫌いな原発を無くすために、これ以上の犠牲を強いる無責任な声を私は決して認めることはないだろう。彼らがしている行き過ぎたこと、してしまったことは、やはり正しいこととは思えない。

この記憶は絶やしたくない。恐怖に負けた記憶より、打ち勝ったことを記憶にして、次の世代へと受け継いでもらいたい。

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飯舘村役場のモニタリングポスト

昨日は仕事帰りに飯舘村役場に立ち寄りました。
先月のニュース等でご存知の方も多いと思いますけど、現​在の飯舘村は国の管理下にあって、避難指示解除準備区域​、居住制限区域、帰還困難区域の3つの避難指示区域に再​編されたところ。ここでは居住(寝泊まり)は許されてお​りません。

ほとんどの村民は避難しており、村に人が集まるのは村役​場と、その向かい側にある地域活性化センターのまわりの​み。この付近の空間放射線量は0.75μSv/​hくらい。ここから南相馬市へ抜ける峠道を走ると1.4μSv/​hくらいまでに上昇しますが、今年の春からの数値は非常に​安定しています。(←今まで何度か線量計測しながら走った感じ​ですが)

※飯舘村の場合、除染作業が終わったところは1μSv/hを切るくらいまで線量が低下していますが、まだ作業が行われていないところは、当然その数値より高い値を示しています。詳しい各地の空間放射線量は文部科学省の放射線モニタリング情報を参照してください。

飯舘村役場

「飯舘村(役場)は、モニタリングポストの値を下げるた​めに、その周辺を徹底的に除染した」というような誤った​憶測の情報と記事が、今年の春頃にインター​ネット上で流れたらしいのですが、真相は「モニタリング​ポストが設置されている飯舘村役場全体を除染したら、(​当然ながら)結果的に値は下がった」だけなんですよねぇ​。。。

また、飯舘村役場のモニタリングポストの件ではこのほかにも、​「測定器の下には分厚い鉄板」と書かれていた記事もあっ​たようで、実物を見たことがない人には、おそらく、「モ​ニタリングポストの下には分厚い鉄板が敷かれている」とイメージして、その絵を思い浮かべながら読んでしまい、信じてしまった人もいるのではないでしょうか?

飯舘村役場の空間線量計

これが飯館村役場にあるモニタリングポストの実物写真。
測定器と一体型になっているベース(土台/​金属板)部分を、どうやら記事を書いた人は「測定器の下には分厚い鉄板」と​、これを表現したようです……。
まぁ、どういう認識を持つのかは、人それぞれなのでしょうけど……。

※ちなみに、このモニタリングポストは固定型ではなく可搬型。おそらく急きょ、試作したタイプではなかろうか?しかもこの形状、茨城県の東海村にあった壁面に取り付けるタイプに脚(土台)を付けただけのように私には見えるのだけど?(見たことがない人にはわからないことでしょうが)

……不安や不信感、または危機と危険、絶望感を煽る人の心理​って、なんなのだろうなぁと、ときどき考え込み、落ち込んでしまっている私がいます。飯舘村​に限らず、今まで暮らしてきた地域に住み続けたい人、戻​りたい人もいるのだけどなぁ。。。

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