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2014年7月に作成された記事

「基準値のからくり」と「誤解だらけの電力問題」

今月購入した本が、自分としてはなかなかのヒットだったので、ちょっとご紹介しておきます。特に読書好きってわけじゃないのだけれど、今年は例年になく読書年ですな(笑)。

基準値のからくり (ブルーバックス)
村上 道夫 永井 孝志 小野 恭子 岸本 充生
講談社

仕事柄、リスクというものは「(ある程度)許容する」ことが意識としてインプットされている私としては、その目安となる基準値がどのようにして決められたのか?ということには興味津々です。

書籍のタイトルが「基準値のからくり」となっているので、一見すると、ちょっと怪しい暴露本とか都市伝説(?)みたいな、普段は決して手に取らない(私自身の基準として)敬遠・警戒するタイプの本(というかタイトル)だけど、中身をパラパラめくってみると、意外とそうでもなかったので購入を決めました。

基準値というのは、(想定された)安全と役割を担保する目安です。リスクの話をすると、よく「有無」であったり「ゼロ」なのかどうか?ということをよく聞かれたりするのだけれど、白黒がはっきりするようなことはなく、ほとんどが濃淡あるグレーなんですよね。多くの基準値は、すべてのリスクがゼロになることを保証してはおりません。

調査や実験などの科学的データのほか、社会や経済の利益と便益性、対策の実現可能性、人の生活習慣や文化、価値観なども考慮して決定されるのが基準値です。その根拠を知ることは、世の中の意思決定(政治)の仕組みを知ることでもありますから、この本はなかなかの良書ではなかろうか?と思っております。(まだ読み終わってないけどw)


誤解だらけの電力問題
竹内 純子
ウェッジ

日本のエネルギー問題、特に電力を考える上では、この本はとても有力なのではなかろうか? 書いてあることは実にオーソドックスなだけに、この本の内容に反論することは非常に難しい。まさに王道。電力を真正面に捉えた1冊です。

こういった本の購入を考える場合、書評などを読んで、1つの参考にすることはあります。Amazonのレビューの中に、この本は「原発擁護論」などと書く人がおられますが、先の「基準値のからくり」のところで述べた、「リスク(あるいは安全)の有無」で思考して判断するタイプの人には、受け入れにくい内容の本かもしれない。この本は、そういう反論に対して明解に答えることはありませんが、黙して語らず、語ろうとしないところに、電力問題の本質があるのでは?と、私は途中まで読んでみて思いましたね。(この本もまだ読み終わっておりませぬw)

私は総じて再生可能エネルギーの技術は好きなのだけど、今の日本中で進む普及状態には好ましいといえる感情は持っておらず、またこのままの状態で進行してしまうと、安定的な電力の供給に支障が出るのでは?と危惧を抱く1人です。ドイツのように脱原発、再生可能エネルギー化を進めるが、「あれも嫌、これも嫌という甘えは許されない」と国民に覚悟を求めていない日本ですからね。

誤解だらけの電力問題という本は、エネルギーに関する神話、エネルギーに関する基本、電力システムの今後が語られています。中でもおもしろいのが「(補論の)電力システムと電力会社の体質論」です。

新聞などで「経済性と安全性と比べるな」という主張がよく展開され、ごもっとも、と思うところもあるけれど、実際には経済で命が失われていることもありますし、むしろ、そっちの方が多いのでは?と私は考えています。最初から結論ありきではなく、「ゼロリスクは無い」という事実を踏まえて考えてほしいと思うんですよね。それこそ、リスクあるものをすべて拒絶していたら、少なくとも日本で暮らすことは諦めなければいけないですし(笑)。そういう主張には大局観が全然感じられませんからね。この問題を通して、それも養えるかもしれない1冊だと私は思いました。

「基準値のからくり」と「誤解だらけの電力問題」

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教科書に載った「神様2011」

実は最近まで「神様2011」という小説の作品が、高校の国語(現代文)の教科書に採用されていたことを全く知らず、このことについては福島県のある国語教師から話を聞いて知りました。なんでも、この作品で授業をした時に、涙を浮かべたり、泣いてしまった生徒が多かったそうで、「授業で取り上げるには(まだ)難しいかも…」、どうしたものかと考えるところがあるそうです。

神様2011

「神様2011」という作品は、この本の著者・川上弘美のデビュー作品「神様」の続編というか、東日本大震災により引き起こされた原発事故を受けての「改訂版」です。書籍「神様2011」の中には「神様」と「神様2011」だけが収められています。超ざっくりと「神様」のあらすじを書きますと、主人公の「わたし」が、マンションの3つ隣の部屋に越してきた「くま」と近くの川にピクニックへ行って帰ってくる話です。「くま」は動物の熊のことです。で、物語は「悪くない一日だった」で終わります。(書籍版「神様2011」の中で、内12ページの短編ですw)

改訂版の「神様2011」でもあらすじは同じです。最後に「悪くない一日だった」で締めくくられています。違うところは、お話が2ページ分だけ増えていることで、お話が増えているというよりは、記述が増えているんですよね。たとえばこんな感じで。

春先に、鴨をみるために、行ったことはあったが、暑い季節にこうして弁当まで持っていくのは、初めてである。(川上弘美「神様」より)


春先に、鴨をみるために、防護服をつけて行ったことはあったが、暑い季節にこうしてふつうの服を着て肌をだし、弁当まで持っていくのは、「あのこと」以来、初めてである。(川上弘美「神様2011」より)

「神様2011」で記述が追加された部分をわかりやすくするために太字にしました。
なお、この作品を教科書に採用した出版社のコメントが新聞記事にありましたので、あわせてここに紹介しておきます。

■毎日新聞:教科書 12年度検定42点に「東日本大震災」の記述(2013年04月19日)より

「現代文B」で作家、川上弘美氏の「神様2011」を掲載した教育出版の担当者は「震災や原発事故への評価が固まっていない段階で教科書に取り上げるのは難しかった。しかし『震災を風化させたくない』という思いがあった」と振り返る。

「神様2011」は、原発事故を想起させる「あのこと」の後、放射性物質が残る中を言葉を話す「くま」と「わたし」が散歩に出るストーリーで、デビュー作「神様」を震災後に書き換えた作品だ。担当者は「事故後の世界であっても『くま』と『わたし』の優しさなど普遍的なテーマが盛り込まれている。この小説を読んで憎しみを感じる人はいない。高校生にこの作品を味わい、テーマについて考えてほしい」と期待する。

原発事故を遠いところ、それこそ映像や新聞などでしか知らない生徒たちと、比較的に近いところで事故に遭った(実体験としてある)生徒との間には、この作品に対する感受性が違い過ぎるのではないだろうか?と、私も思うところ・考えるところがあります。

実際、教科書にどのような載せ方をしているのかは確認しておりませんが、教科書に「神様2011」を載せるにあたって、その前の「神様」という作品が一緒にないというのはどうなのだろうか?

あと、この作品を授業で取り上げる際には、著者の「あとがき」に触れることも必要ではなかろうか。原発事故が身近なところにある生徒にとっては、この著者のメッセージは必要不可欠のように思います。

震災以来のさまざまな事々を見聞きするにつけ思ったのは、「わたしは何も知らず、また、知ろうとしないで来てしまったのだな」ということでした。
(中略)
2011年の3月末に、わたしはあらためて、「神様2011」を書きました。原子力利用に伴う危険を警告する、という大上段にかまえた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりもむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性を持つものだ、という驚きの気持ちをこめて書きました。静かな怒りが、あれ以来去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから。この怒りをいだいたまま、それでもわたしたちはそれぞれの日常を、たんたんと生きていくし、意地でも、「もうやになった」と、この生を放りだしたくないのです。だって、生きることは、それ自体が、大いなるよろこびであるはずなのですから。 (川上弘美「神様2011」あとがきより)

高校の国語の教科書として「神様2011」の授業展開を考えれば、ストーリーだけでなく、文章の表現としてどうなのか?とか、なぜ「くま」は、「熊」でも「クマ」でもないのだろうか? 主人公の「わたし」は男性or女性?(実はどっちにも取れるw) 「くま」は礼儀正しくて優しいけれど、なぜちょっと怖いと感じるのだろう?など、小説の文脈に沿ってあれこれ考えてみたり、授業でみんなと一緒に話し合ってみる、なんてこともあるかなーとは想像できます。でもこれは、原発事故から遠い地域・人の場合かな、とも思うんですよね。

東日本大震災による津波と原発事故を近いところで体験した生徒の中には、それを経験してない先生や生徒たちと違って、いろいろ複雑なものを抱えています。かくいう私も、ちょっとトラウマというほどではないけれど、自分の中にそれが存在することを認めています。みなさんはもう忘れているかもしれませんけれど、スクリーニング済証の経験などの、当事者性の濃い人たちが受けた、当時の憤りと悔しさ、悲しさ、差別的扱いなどを思い起こさせるには、十分な記述が「神様2011」の中にはあります。

著者が「神様2011」を執筆したのはタイトル通りの2011年。その当時の情報から想像して書いたものだから、ある程度仕方がないところはあるけれど、2014年の現実の状況と照らし合わせると、世界観としては「差があり過ぎるなぁ…」と私は思います。このあたりを高校生が自分の中でうまく処理できるかどうか。たぶん、他県の学校の先生や生徒たちにはない課題が当地の先生たちにはあるでしょうね。

「神様2011」は、書籍としては許せるし、いいかな?(むしろOK!)と判断するのだけれど、これが教科書に載って授業で、となると、私も福島県の国語の先生同様、ちょっと考えてしまいます。本当に複雑なんですよ、こういうことは。。。

原発事故を近いところで経験した生徒たちには、まだ教科書としては早いかな。遠いところの生徒たちと違って、先生たちのフォローに頼る・期待したいところ(負担)が大きいかなぁ、せめて「美味しんぼ」の件がなかったらなぁ……と思う今日この頃です(苦笑)。

書籍の「神様2011」は、本としては、本当にとてもよいものだと思います。むしろ私の好みの本ではありますが、当事者性が濃いゆえに、これは読み物として正直ツライものがある作品です。いまだに、つい無表情・無感動を装ってしまう自分がいます。


神様 2011
神様 2011
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川上 弘美
講談社

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009 RE:CYBORG

宮城県の石巻市に滞在中、ちょうど動画サイトGyaO!(ギャオ!)で無料公開していたものを視聴することができました。(この日の早朝は緊急地震速報と津波警報発令で、ちょっといろいろ大変ではありましたが~)

009 RE:CYBORG

――「彼の声」に従って人類をやり直さなければならない――2013年、世界の超高層ビルを次々と狙う同時多発テロが発生。その「姿なき敵」と戦うため、再結集するゼロゼロナンバーのサイボーグ戦士たち。事件真相の鍵となる「天使の化石」と「謎の少女」、そして「彼の声」とは一体何かのか――。

サイボーグ009(ゼロゼロナイン)は、石ノ森章太郎のマンガが原作。筆者は昭和と平成のカラーアニメーション作品と劇場版の超銀河伝説くらいしか見ておらず、マンガ原作は全然知らないのだけれど、これらシリーズ作品に共通するテーマは、おそらく「正義」と「悪」で、これを哲学的に問いかけるのが「サイボーグ009」なのかなーと。あと、私的には結構「反戦色」が濃いイメージの作品ではありますね。

009 RE:CYBORGは、これを現代版にして再構築したサイボーグ009の劇場版作品で、9.11アメリカ同時多発テロ以降の世界が舞台です。軍産複合体の「死の商人」よりも根源的な悪との対峙が描かれています。この悪とは、現代社会に巣くう退廃や、終末論思想といった、なんとなく「そういう方向」とでも言い表せばよいでしょうか? 3.11東日本大震災の後だから、これは余計に感じるところかも?ではありますが。

サイボーグ009シリーズ作品に共通するモチーフに「正義」と「悪」のほかに、「神」と呼ばれるものの存在もあると思うのだけど、これは聖書の世界などに出てくる(教条的で単純な)善と悪の「神」ではなく、どちらかというと北欧神話に出てくるような「秩序と混乱」の対立で、絶対的な「神」ではないものとして描かれているように思います。
そういえば、サイボーグ009の昭和のテレビアニメ版では「オーディン」とか「宇宙樹(世界樹/ユグドラシル)」など北欧神話の中に出てくる名称や世界観の話もありました。 009 RE:CYBORGは、「滅びの予言」に他人を巻き込みがら物語が進む北欧神話により近い作品なのかもなぁ。

009 RE:CYBORGの「彼の声」は、北欧神話でいうところの、自身の道徳性の堕落に伴う、自己正当化と自己矛盾、さらには罪悪感に基づく自虐性によって、最終的にはラグナロク(最終戦争)を起こすようなもの。今までのサイボーグ009シリーズだと、ブラックゴーストのような(わかりやすい)悪意が敵だったのだけど、現代はなにか(わかりにくい)空気のような意識が敵みたいな。(これは私もヒシヒシ感じるところだったりしますけど)

でも、009 RE:CYBORGは物語の最後のほうから結末への展開は、北欧神話とは違っていて、主人公のサイボーグ戦士たちが、人として自らの運命を切り開く姿が描かれています。これはまぁ、サイボーグ009シリーズ作品のすべてに当てはまる「お約束事」ではありますが(笑)、これが原作者・石ノ森章太郎の答えなのでしょう。

009 RE:CYBORGのラストの世界で、物語前半で消えた007と008、最後に地球へ落ちた002が一緒の場所で、ギルモア博士らと言葉を交わしているところを見ると、三途の川は渡らずに済んだのかな?と期待しています。

サイボーグ009は「悪は人の心の中にあって、人がいる限り、これを滅ぼす事はできない」という結論が必ずあるけれど、これに「抗う」ことも決して捨てない作品です。

009 RE:CYBORGでは、「彼の声」に対してどう答えるか?という話でもあります。同じ「彼の声」を聞いた人たちが自爆テロなどを実行したことと、主人公らが実行したことは、実は手法として「自らを犠牲にする」というのは一緒なのだけど、解釈によってやったこと(効果)が違うというのは、まさに「ボタンのかけちがい」そのものだよなーと思いましたね。

現実の世界はそれがすべて、表裏一体であるということも、原作者やこの映画作品を作った人たちが辿りついた真理ということかもしれませんね。


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バップ (2013-05-22)

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HAPPY石巻版&福島浜通り版

先日公開されたHAPPY福島浜通り版に続き、HAPPY石巻版も昨日アップされました。東日本大震災以降は東北エリアの津波被災地で仕事をすることが多かった私としては、これはもう「うれしい」の一言です。それぞれいろいろあるけれど、こういう笑顔があるだけで、前に進んで行ける気がします。

というわけで、まずは昨日アップの石巻版から。

ちなみに、石巻の津波被害が大きかったところは、まだまだこんな感じです。
(写真は昨年9月のもの)

2013年9月の石巻

一応、HAPPY石巻版の中に出てくる絵の1コマに近いものを載せてみました。先月末に日和山から見た景色と、大きくは変わりありませんでしたね。。。


そして次は、石巻版より数日アップが早かった福島浜通り版。

下の写真も昨年9月に撮ったもの。福島県いわき市(小名浜)です。HAPPY福島浜通り版の映像には出てこない絵ではありますけど、この映像を見て私が頭にフラッシュバックした景色の1つです。

2013年9月のいわき・小名浜

震災前、舗装された丁字路の信号機の前には小さな写真館が建っていました。津波のあとも建物は残っていました。でも、今はありません。

石巻も福島浜通りも、震災前のそれぞれの街の様子を少なからず記憶していますから、ここがどういう場所で、あの津波でどうなったのか、そして今も、毎日ではないものの、定期的に仕事で訪れて見ているから、ただファレル・ウィリアムスの大ヒット曲「HAPPY」に乗って踊っている映像ではあっても、見る者によって見えているものは、実はそれぞれ違います。

今思うと、HAPPY福島版が公開された時に、ネガティブコメントを寄せてしまった人たちは、たぶん、映像の中に描かれる笑顔の裏側とか、そういうところには想像力が働かなかったのだろうな。そんなことも思いました。


※HAPPY福島版の件をご存知ない方もいるかもしれないので、以下の記事も参考としてリンクを載せておきます。

■今の福島のひとつの姿「HAPPY福島版」
http://hamayu.cocolog-nifty.com/column_diary/2014/06/happy-bd39.html

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官邸前反原発デモについて(私の認識と見解)

福島民友新聞『原発災害「復興の影」今を追う 反原発デモに違和感「福島差別」助長した側面』の新聞記事(コラム)内容をめぐり、「やっとこういう記事が出てきたか」と歓迎する人たちと、「これは事実誤認。官邸前反原発デモが差別を助長することはない」と批判・抗議する人たちがいることについては、前回のエントリーで触れました。

この新聞記事の反響について某SNS上で少し首を突っ込んでみたところ、双方の言い分に「なるほどねぇ…」と感じる部分がいくつかあって、対立ではなく、お互いが足りないこと、いたらないところを補完できるようになるといいよね、なんて思いました。それぞれが選ぶもの、重要視するものが違っていても。

* * * * *


ところで、反原連の官邸前反原発抗議デモに参加したことがある方、すでにビギナーの域を超えている参加者には、今さら説明する必要はないことですが、「官邸前反原発抗議デモ」の主催は反原連(首都圏反原発連合)です。そしてメディア等で取り上げられる「官邸前反原発抗議デモ」の代表格。2014年7月の現在は、この反原発抗議デモの参加者も一昨年と比べると少なくなり、認識としては「官邸前反原発抗議デモ=反原連」で問題ないでしょう。

なぜ、現在は「官邸前反原発抗議デモ=反原連」の認識で問題ないですよ、なんて書いたのかといいますと、福島民友新聞の記事の中で語られる、福島県内で反原発運動を冷ややかに見る向きが多い人の「反原発デモ」のイメージは、たぶん、テレビや新聞などで大きく報じられた昔の「大飯原発(福井県)の再稼働が焦点となった2012(平成24)年夏に20万人集まった」イメージのままなのでは?と思ったから。

あの頃の官邸前反原発抗議デモは、反原連が主催のそのデモに、(勝手に連携とか合流と称して)ほかの抗議デモ団体も集結していた時代。それこそナントカ労働組合とか中核派、革マル派の旗があったり、集団疎開や脱被曝を訴える団体などが官邸前に集まって大騒ぎになりました。で、これをマスコミが「十把一絡げ」にして報じてしまったから、「反原発デモ」のイメージが「あの当時のまま」という人が、実は多いんじゃないのかな?

※2012(平成24)年の夏に20万人集まった頃は、
「官邸前反原発抗議デモ=反原連+その他抗議デモ団体(多数)」です。
大飯原発再稼働の最終承認機関である日本政府を共通の敵として、反原連の官邸前反原発抗議デモに、それぞれの思想と主張、根拠を持つ多くの人と団体が集まりました。(この当時の原発再稼働に疑問や違和感、反感を持ち、原発再稼働反対のシングルイシューで人が集まった)

もしそうだとしたら、福島民友の取材を受けた反原連の主催者団体メンバーが、あの新聞記事に抗議することは、想像するとちょっと合点がいくところなんだよね。なぜなら、反原連の官邸前反原発抗議デモは「原発問題の抗議(それ以外の主張は排除)」がポリシーだから。これが守られているならば、記事中の「そんなところ(郡山)に子どもを住ませるな」という発言は、反原連の抗議デモ参加者ではなく、ほかの団体(たとえば集団疎開とか脱被曝団体の人)からのものかもしれない。

ただ、これって、反原連の官邸前反原発抗議デモに参加したことがない人には(よく事情がわかっていないと)区別されにくいことで、マスコミがひっくるめて「反原発デモ」と報じていることを考えると、「反原発デモ=主張のために福島差別を叫んでしまう人たち(もいる)」と認識されやすいですよねー。

ビギナーレベルの反原発デモ参加者では区別がつかないことだろうし、まして、ただの見物人やお茶の間でテレビを見て存在を知ったような人たちでは、たぶんわからないことだと思います。実際、各抗議デモを横断的に参加する人もいますからねぇ。

※反原連のポリシーを無視した(他の思想を持つ団体や個人の)デモ参加者が、反原連が主催の官邸前反原発抗議デモで声を上げてしまったり、声には出さずとも、他方法により主張を行ってしまうことは実際にありました。
また、反原連の官邸前反原発抗議デモの中で、国会議員になる前の山本太郎氏が「食品100Bq/Kgは放射性廃棄物」とマイクでスピーチした映像が流れたことも。福島県双葉町の井戸川元町長の主張(ほぼ国や政権に対する批判/原発への抗議スピーチの内容ではない)もありました。主催者団体メンバーはこれを止めることはしませんでした。(当時はこれを容認した)

今は反原連が主催の官邸前反原発抗議デモに集まる人は2000人くらいって言われているけど、官邸前に集まる人、抗議活動をしている人、あるいはグループ(エリア)が、反原連なのかどうかは傍目にも区別しづらいところはあるから、どうやって識別するのか・させるのかは、双方にとっての共通の課題でしょうね。

* * * * *


私自身は、官邸前反原発抗議デモに参加したことはないけれど、何度か傍観者としては見ています。ちょっとガラの悪い人とか怖そうな人(笑)はいますけど、反原連が主催の反原発抗議デモ参加者は、総じて「福島差別」を叫ぶような人は少ないです。ここで「少ない」と私が書いたのは、この抗議で行われる表現が差別につながったり、それを手助けしたりするかも?とか、福島に限らず、原発が建っている地域の人が、この抗議の表現を知ってしまったら傷つくのでは?と疑問に思うもの、反感を持つものもあるからなんだよね。

反原連の官邸前反原発抗議デモの中で、太鼓や鈴のリズムに乗せて叫ぶ言葉が「原発いらない。子どもの為に、未来のために」なら全然問題ないのだけれど、反原連の旗がある別の場所でのパフォーマンスでは、「女川反対、東北危ない、地震が来るぞ、津波も来るぞ」なんてコールしているグループもあるんだよね……。

津波被災地の宮城県女川町

『……抗議したい対象は「女川原発」だと思うけど、その場合は、せめて「女川」と端折っちゃイカンのでは? 東日本大震災の大津波で、町全体が壊滅的な被害を受けた女川町(宮城県)の人がこれを聞いたら、気分を害するんじゃないのか?』って、私は思うんだよね。言葉の1つ1つは「差別」じゃないけれどさ。

ほかにも、原発事故を起こした福島第一原発で、地下水の放水が開始されて、漁業の試験操業が開始された間もない時期に「汚染水止めろ、放射能止めろ、海に流すな、福島汚すな」や「桜島爆発するぞ、川内反対」などなどあったりして。差別的示威行為で共感できず、はっきり言って不快で不機嫌になりましたね。

だから、あの新聞記事の内容を読んで「反原連の運動が福島差別を助長することはあり得ない」なんて言われても、これでは説得力がないんじゃないですかね? だいたい、差別を助長するものが必ず差別発言であるとは限らないわけですし。 福島民友の記事にある、「原発デモ」に違和感や反感を抱く人たちがいることは、そういう部分も寄与していると思いますよ。原発に反対でも運動とは距離を置いてしまう人の心、心理を読めなさ過ぎます。

仮に、今は「そんなことをやっていない」といっても、昔は「やっていた(やってしまった)」わけだからね。デモの主催者団体側は、毎週実施していることだから、そういう認識が甘くなってしまうのだろうけど、見る側からすれば、たった1日でも、数時間、数十分でも、目の前で繰り広げられている世界がすべてだからね。

あと、これは主催者団体側というよりは、反原発抗議デモ参加者に対してだけど、反原発抗議デモのポリシーに違反する主張は一切出さない方がいいよ。「怒りの表現」なんていうくらいだから、大声で連呼して心拍数が上がってしまって、つい出てしまうのだろうけど、そういう場で「改憲反対」など全然関係ないことを一言でも叫ばないほうがいい。そういうのは少なくても目立つから。これも違和感を覚える1つだよ。(主催者団体側のガバナンスが不十分、ということでもあるけど)

官邸前反原発抗議デモの中で、声には出さないが、頭に被る帽子や手に持つメッセージボード、うちわ等に「TPP反対」や「オスプレイ反対」、「特定秘密保護法反対」など、原発問題と直接関係ない主張を行う者も参加していた。これを主催者は容認していた。これも福島民友新聞の記事に書かれている「運動の継続のため」の1つにあたるのかもしれない。
(主催者の公式アナウンスでは、参加者に対して反原発抗議のポリシー以外の主張は遠慮をお願いしているが、参加者全員が必ずそれを尊重してくれるとは限らず、察するに、これはなかなか頭の痛いところとは言える)

私としては、あの福島民友の記事に書かれている内容は、起きている事象を表す・把握するためのものとしてはいいのかなって思うんだよね。反原連デモの参加者から出た言葉じゃなくても、同じ官邸前反原発抗議デモの中(場所)から発せられた言葉だから。反原連のデモに関わらず、「反原発デモ」をそのように見る人・見えている人は全国的に結構いると思いますよ。

■官邸前原発再稼働反対デモに感じた違和感 「社会科学者として」より


――当事者ではない人たちが介入し、その結果生まれるかもしれない電力不足のリスクを引き受けないということは、やはりおかしな感じがするのである。

反原発デモが行われている首都圏に電気を送っていた東京電力の原子力発電所事故。その大きな被害を近い場所で受けた人たちが感じる違和感や反感さえも受け止めず、またその声を聞きもせず、時には否定さえもして、3年以上経過した今、福島県の新聞に記事として載ったことを、反原発に対する「貶めである」とだけ思わずに、少しは考えてほしいとも私は思い願っています。このことが対立ではなく、みんなにとってよいキッカケになりますように。


※というわけで、前回のエントリーに転載した福島民友の新聞記事を、あらためて以下にリンクを貼っておきます。

■官邸前反原発デモについて(新聞記事内容の転載)
http://hamayu.cocolog-nifty.com/column_diary/2014/07/post-a47d.html

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官邸前反原発デモについて(新聞記事内容の転載)

ここ数日、福島民友新聞の『原発災害「復興の影」今を追う』シリーズの記事は、全国版にはない地元新聞ならではの立場と視点で、むしろ好ましい「問題提起」をしています。(一方で、対立を煽るのでは?という方もいますけど)

以下に転載する内容は、そのうち福島民友のサイトにも掲載されるでしょうけれど、いつWebに掲載されるのかはわからない(ちと遅い)ので、ここに記録して紹介させていただきます。

※7/22に福島民友新聞のサイトを確認したら掲載されていましたので、あわせてこちらもご覧ください。[2014/7/22追記]

■反原発デモに違和感や反感 「福島差別」を助長した側面
http://www.minyu-net.com/osusume/daisinsai/serial/fukkou-kage/140702/news.html

福島民友新聞 2014年7月2日
原発災害「復興の影」今を追う④

■反原発デモに違和感「福島差別」助長した側面

「原発いらない。子どもの為に、未来のために」毎週金曜日に、東京・首相官邸前を中心に行われている反原発デモ。参加者らは太鼓や鈴のリズムに乗せて叫ぶ。「ドラムをたたこう、みんなの声で原発なくそう」。主催者側はこれを「怒りの表現」とするが、この行動に違和感や反感を抱く人たちがいることも確かだ。

大飯原発(福井県)の再稼働が焦点となった2012(平成24)年夏に20万人(主催者側発表)まで膨れ上がった参加者も、現在は2千~3千人(同)。デモでは参加者がマイクを握って官邸に向かって思いを述べる。当初は「そんなところ(郡山)に子どもを住ませるな」など、本県が悲惨な状況だと強調する発言が目立った。参加者の減少もあり、今ではそうした発言は減ったが、それでも風評払拭の動きを指し「食べて応援なんて絶対だめ」などという言葉が聞こえてくる。


■当事者の意識が希薄

主催者団体主要メンバーのミサオ・レッドウルフはこうした福島についての発言について、「原発事故に県境はないが、自分も事故の当事者という意識が希薄な人がいる」と認める。しかし主催者側は参加者の発言に寛容だ。背景には運動の継続がある。一口に反原発と言っても、健康への影響や原発への考えはさまざまで、それを表面化させれば運動は行き詰るとみられる。「デモをやめれば、反原発の思いが消えたと解釈される。続けるのが重要」とレッドウルフは言う。

県内ではデモを中心とした反原発運動を冷ややかに見る向きが多い。田村市の農業坪井和博(66)は脱原発の立場だが、「首都圏のデモには違和感を感じている」と明かす。「声を上げるのは大事だが、どうしたら原発をなくせるか、政治や世論をどう動かすか考えるべき。自己満足に終わってるんじゃないか」。


■人ごとの態度に反感

福島大特任研究員の開沼博(30)は、反原発デモが「福島のためと言いながら、一方で『あんなところ住めない』とか『障害児が生まれまくっている』とか平然と言う人が、(運動の)内部にいることが、嫌悪感すら呼び起こしている面がある」と解説し、運動に漂う、人ごととして福島事故を見る態度が反感の背景にあると見る。「反原発の活動、言動が福島差別を助長してきた面はある。社会運動として非常にまずいことをした」

実は、この記事をキッカケに、少しばかりSNS上で「やっとこういう記事が出てきたか」と歓迎する人たちと、「これは事実誤認。官邸前反原発デモが差別を助長する事実はない」と批判する人たちの間で(対話・会話にならなかったことも一部なきにしもあらずではありますが~)意見交換することが出来まして、お互いの認識をアップデートできたところはあったんじゃなかろうか?と、首を突っ込んでしまった一人としては思いました。私自身は得られたものは多かったですね。(この記事を批判する人たちは、ちょっとどうでしょうかねぇ……と、ちと不安だけど)

これについては、このエントリで書いてしまうと、たぶん(また)長くなると思うので、別記事で(頭の中を整理しながら書いて)後日アップしたいかなー。

ちなみに、先に私の立場を言っておきますと、反原発デモ自体は別にいいけれど、差別を助長するようなデモ行動・表現は容認できない立場ですね。この記事については容認するし、たぶん擁護はするかな。疑問を抱きつつだけど(笑)。

この新聞記事中に登場する官邸前反原発デモの主催者団体メンバーの方は、「自分が言った趣旨がくまれていない。フェアな書き方ではない。記者に抗議する」とのことで、この行方も私には気になるところです。


※反原連がこの福島民友新聞の記事への抗議文を掲載していますが、……なんだろう、これはかえって印象が悪くなるような気がして心配です。。。[2014/7/11追記]

■7月2日の福島民友新聞に掲載された記事に関する報告(抗議文)
http://coalitionagainstnukes.jp/?p=4870

この抗議文に目を通した私の感想ですが、批判を批判として受け止めず、貶めと捉えて抗議しているところが一番アカン気がします。 批判として受け止めて、その上で抗議、(誤解があるという前提で)説明すればよかったのになぁ…と思いました。これでは原発に反対する人でも、ますます運動とは距離を置きたくなると思う。。。

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ヒトラーを支持したドイツ国民

かつて日本の副総理大臣が、マスコミが憲法改正の議論を阻止するなら「静かにやろうや」、「(ナチスの)あの手口、学んだらどうかね(笑)」みたいなこと、あるシンポジウムで発言したら「ナチス賛美、けしからん!」的な解釈をされて、マスコミや護憲派の方々から集中砲火を浴びた出来事がありましたが、あれには私、正直ドン引きいたしました。(それはバッシングした側に対して)

ヒトラーを支持したドイツ国民

「ヒトラーを支持したドイツ国民」ロバート・ジェラテリー著(根岸隆夫翻訳)。5年くらい前に一度読了していますが、再び読んでみることにしました。

巧みなプロパガンダによってナチスのヒトラーは、ドイツ国民を騙した・欺いた、あるいは洗脳していったとか、恐怖政治を行ったイメージがあるかもしれないけれど、この本では国民が納得して「積極的に」ナチスを支えていったプロセスが丁寧に書かれています。

ナチス第三帝国の総統アドルフ・ヒトラーは、12年間もドイツ国民の支持を幅広く得て、その維持に力を注ぎました。その功績をザックリ言えば、第一次世界大戦に敗北したドイツを立ち直らせてオリンピックを開催。大型公共工事で労働問題を解決し、高度経済成長を成し遂げました。また、少子化対策や医療の充実、工業も発達しましたから、当時のドイツ国民から見れば偉大な指導者、英雄にも見えたことがうかがわれます。

ヒトラーが宰相就任直前のドイツは、自殺率が欧州諸国と比較して、イギリスの2倍、アメリカの4倍という著しい高さがあり、女性の社会進出にともなう少子化は加速、保守的な人々を不安にさせ、伝統的な家族制度の復活を望む人々が増えていました。また、犯罪率も増加の一途をたどり、メディアではゴシップや政治スキャンダルが報じられる毎日……という、まるで今の日本を見てるかのよう(苦笑)。

議会は小政党が乱立し、政治は迷走を重ね、議会の外では各政党の支持者同士や労働者、デモ隊が暴力衝突を繰り返し、そこに大恐慌が追い打ちをかけて、国民は政治不信。すべての政党と議員を見限っていました。(これがワイマールの時代)

そんな状況下で国民が選べる政党は、選挙のたびに権力闘争に明け暮れる腐敗した既存政党or革命を唱える共産党という二択を迫れ、その時に第三の勢力として現れたのが、躍進してきたナチス(国家社会主義ドイツ労働党)です。ドイツでマルクス主義が好きな人って少ないから(笑)、そうなると第三勢力のナチスに期待が集まるわけで、多くの国民に支持されました。

ちなみに、ナチスを支持したのは男性だけでなく、保守主義の女性、カトリックの女性、それから自由主義の女性までもがナチスの主張に同調しました。ヒトラーを権力の座に就かせたのは、混乱・低迷する社会から、正常な社会に戻したい、国民の切実な願いでした。

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この本を読んで、とても驚いたことは、ドイツ国民による「積極的な密告」が行われたこと。実にさまざまな密告例が紹介されています。たとえば……、

  • 長年連れ添ったユダヤ人妻と不仲から、彼女がヒトラーの悪口を言ったと密告→妻はアウシュヴィッツ送りとなった。

  • ある既婚女性が、隣人の女性が「母親としての義務」を省みず、ポーランド労働者の男性と情事にふけっていると密告→その女性は収容所送り。

  • ある少女が物知りな弟を密告。取り調べで少女は「弟を訴えたのは、いつも彼が威張っていて、彼の自説がいつも正しいとは限らない事を示したかったから」と答えたという。

……うーむ。なんだかなぁ。。。
一言でいうと「利己的が過ぎる」というか、そんな次元の話じゃないよねぇ。。。

よく「ゲシュタポ(秘密警察)」は積極的に国民を監視した怖い組織とかって教えられていたけれど、実際のところは、毎日このような密告にゲシュタポが忙殺されていたという……。

今で言うと、Twitterや各種SNSで、気に入らない発言があったらゲシュタポに報告してアカ凍結とか、巨大な釣り針を仕掛けて釣り上げる・晒すみたいなもので、それで容易く収容所送り、みたいな笑い話では済ませられないこと。これは頭を抱えてしまいます。。。

ゆえに、この「密告」にドイツ国民が積極的参加することにより、ヒトラーの独裁体制は盤石にもなったということが本当のところであって、権力者が強権をいつもブンブン(?)振り回して、「恐怖政治」なんて言葉でいわれているイメージのファシズム(全体主義)とは全然違っていたことは、この本を読んで初めて知りましたね。

で、ドイツの場合は国民が、自ら「積極的」に権威主義(この場合はナチスとヒトラー)に傾倒することだったとは。プロパガンダとか情報統制で~じゃなくて、それはあくまでサブ的手法だったのか~。

なお、この本では(お値段が5000円もすることもあってか)、ナチスが築いた積極的な市民参加による「密告」がヒトラーの独裁制を基礎付けられた理由が書かれています。人が抵抗して団結・連帯できないようにするための方法論も語られており、「これはちょっとブログでは書けないわ~」という、チキンな私としては、もう「怖いわ、コレ…」的な記述もありました。(よって、これは自主規制で割愛ですw)

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現代では、敵対者にレッテルを貼るために、ヒトラーやナチスという言葉が使われます。たぶんこれは、相手がヒトラー的かどうかとか、ナチス支配時代的なイメージで(勝手に想像して)絶望して当てはめているのだろうけど、それは使い方として誤りというか、あんまり意味ないんじゃないですかね?

この本は歴史研究の類の本だけど、ここには最悪の選択をしないための様々な示唆に溢れています。当時に何が起きて、今は何が違うのだろうか? 誰かに扇動されず冷静に今を考える必要がある昨今、あらためて読んでみて、この時代をしっかりと学ぶ必要があるよなぁ……と、この本で描かれる様々な人びとの「密告」のおかしくも残酷な営みの数々をあらてめて目に通して思いましたね。もう、本当に現代の日本みたいで。


ヒトラーを支持したドイツ国民
ロバート・ジェラテリー
みすず書房

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日本の集団的自衛権に思うこと

今年は「仏教」と「平和主義/平和構築」に関わるの本や資料を読むことが多い私です。これは特にテーマを決めてこうなったわけじゃないのだけれど、気がついたら仏教の書籍は3冊、平和主義/平和構築関係の書籍は5冊に目を通しておりました。

このほか、図書館でコピーした資料やインターネットからダウンロードして入手したPDF資料などにもいろいろ目を通していますから、今年は考えるための情報や材料は多いですね。ただこれは、頭の中で整理できているか否かは別だけど(笑)。
(下の写真はその中の5冊をチョイスして撮ったもの)

今年の読書2014

ちなみに、先にここで平和主義/平和構築「関係」と書いたのは、さらに内訳として分類すると、平和主義の書籍1冊と平和構築(紛争解決)の書籍4冊。私の中でウェイトとしては、理念や哲学としての平和主義ではなく、現実的かつ具体的な紛争解決と紛争回避のための平和構築論に大きくシフトしている昨今です。

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そんな中、先日の2014年7月1日に日本政府が集団的自衛権の行使(保持)を閣議決定しました。これはあくまで、わが国でも集団的自衛権を使えるようにする、という方向を定めただけのことですから、まだ(法律としては)この手段は使えない・認められていない話です。(なので、これから集団的自衛権が使えるようにするための法改正案を作り、これを基に国会で議論・審議される運びになります)

これについては、ぶっちゃけた話、私はどうでもいいと言いますか、集団的自衛権を持つこと、いつでも使えるようにすることは、別にいいんじゃない? 別に構わないけどさ、という立場です、今のところは。(そもそも論として、何を今さら…という気もしますけど)

ただ、かつてと同じように「自衛隊」を生み出した憲法の解釈変更だけですと、(そもそもの話、自衛隊が今存在しているのは、昔の憲法解釈変更による結果。そして今日に至るですし、)さらに憲法を歪めることになるんじゃないの? それだとますます憲法9条が存在する意味はないから、憲法を部分改正するか、それこそ作り直すくらいのことをやらなければ筋が通らない・整合性が取れないのでは?と思っています。

つーか、解釈変更などと、ここまで尊重されない憲法なんて、もうそれは憲法じゃねーよ(笑)。で、尊重されないのはなぜかと考えると、それは今の憲法が、当時のアメリカの、よかれと思っての見解と都合で作ったものであって、当時はそれでも良かったけれど、時代が移るに従って、アメリカの都合で解釈が変わる(アメリカから要求されることが変わる、その影響を受ける)憲法ってどうなのだろーか?と思うところがあるからなんだよね。

アメリカが日本国憲法(憲法9条)を作っておきながら、東西冷戦下で起こった朝鮮戦争、最近ではイラク、インド洋、ソマリアと、日本に支援(自衛隊派遣など)を要求し、集団的自衛権をすでに行使させている現状を見れば、なんだかな……と思うわけですよ。今回の閣議決定以前よりもっと昔に、有言無実化されているわけですから。(多くの日本国民が、それをわかっていない・気づいていないんだよねぇ……)

※日本人が、これを集団的自衛権の行使として捉えていないのは、「国連の決議に沿って」支援している=憲法で制限していることとは別と考えているからでしょうけど。(=国際社会が認めれば集団的自衛権はOKという解釈=すでにこれは実績あるってことじゃね?)

※報道が「わかりやすい」として例示する集団的自衛権の図にも、まやかしはあるのですよ。その最たる例が以下記事の図解。
■やさしい言葉で一緒に考える 自衛の措置(朝日新聞デジタル)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11221914.html

「個別的自衛権/集団的自衛権/集団安全保障」と分けて図解していますが、国連決議による「集団安全保障」も(国連加盟国による)集団的自衛権の行使ですから、構図・概念としては別ではないのでは?(旗振り役が国or国連かの違いだけで)

* * * * *


7月1日に日本政府が集団的自衛権の行使(保持)を閣議決定した後、カウンター行動として、いわゆる「護憲派」の人たちが、いろいろと声を上げています。
ここでは以下記事を引用いたしますが、

■「行使は絶対に許さない」=大江健三郎さんら訴え-東京


集団的自衛権行使をめぐる閣議決定を受け、ノーベル賞作家の大江健三郎さんらが1日夜、東京都内で記者会見し、「閣議決定は許しても実際の行使までは絶対に許さない。きょうはその誓いの日だ」と抗議の声を上げた。

会見したのは、大江さんら「戦争をさせない1000人委員会」のメンバー。冒頭に「集団的自衛権の行使は中立の立場を捨てることで、過去の戦争の多くが集団的自衛権を名目に正当化されてきた。憲法の理念を権力者から取り戻さないといけない」などとする声明を発表し、今後も反対運動を続ける意向を示した。

閣議決定に大江さんは「平和憲法と民主主義が自分の支えであり、打ちのめされたような気持ちだ」と表情を曇らせた。訴えは数十分におよび「安倍晋三首相は憲法への畏れを持たない珍しい人間だ。集団的自衛権がもとで国内で起きるテロなどへの想像力も欠けている」と批判した。

また、作家の落合恵子さんは「立憲主義の息の根が止められようとしている。権力者の戦争ゲームに付き合わず、国民は子供の笑顔を思い浮かべてほしい」とアピール。法政大の山口二郎教授は「さまざまな概念を持ちだし、国民を当惑させたままで閣議決定に踏み切った。不誠実極まりない」と訴えた。

これにもあまり頷けないんですよね。正直な気持ちを言えば、「護憲派もダメだなぁ。この人たちには任せられないなぁ……」というもの。特に納得できない部分は、「集団的自衛権がもとで国内で起きるテロなどへの想像力も欠けている」と批判したところ。すでに集団的自衛権を行使している日本が、一体何を言っているのですか?といった感じ。この人も、その認識がなかったのか……と残念に思います。

もうすでに日本は、テロ攻撃の対象国の1つじゃないの?(優先順位は低いと思うけど)、アルジェリアで起こった人質拘束事件で日本人犠牲者が出たことは考慮しないの?(日本人も米国人同様に見られているよ)

話がちょっと飛躍するけど、集団的自衛権を持つべきではない・行使すべきではないという考えは、例えば、日本と全く関係ないアフリカの地域の内戦で、罪もない一般市民が虐殺されるのを、日本としてはどう対峙するつもりなのだろうか?

「権力者の戦争ゲームに付き合わず、国民は子供の笑顔を思い浮かべてほしい」と言いながら、内政干渉になるからと、他国・他地域で子どもの笑顔がなくなることには介入しないの? 国連決議がないと正当性が示せないから、それまでは見殺しもやむなしってこと? それとも、国連決議(国連自体)による集団的自衛権の行使も認めないってこと?

今の世界情勢の中で、単純に物事を(狭く・限定的に)考え過ぎなんじゃないですかね? 憲法9条がノーベル平和賞の候補になったみたいだけど、そんな名誉や権威よりも、現実的にどう戦争を回避するか、戦争中であれば、どうやって収束させるのか、具体的な方法論をおろそかにしていませんかね? 理念や哲学も大事ですけれど。

集団的自衛権は「国家の安全保障」の話だけど、日本はそろそろ本気で「人間の安全保障」も議論した方がいいんじゃないですかね。これは同盟とか陣営なんていう「どちら側」という話じゃありませんし。両極端な二項対立だけで報じたり、議論すること・されることが、正直かなーり嫌になっている私です(苦笑)。


※集団的自衛権については、紛争解決の現場の声も併せて読んで知ってほしい、ということで、以下の2冊を私としてはおすすめしたいところです。

伊勢崎賢治の平和構築ゼミ

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さよなら紛争 (14歳の世渡り術)
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