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官邸前反原発デモについて(私の認識と見解)

福島民友新聞『原発災害「復興の影」今を追う 反原発デモに違和感「福島差別」助長した側面』の新聞記事(コラム)内容をめぐり、「やっとこういう記事が出てきたか」と歓迎する人たちと、「これは事実誤認。官邸前反原発デモが差別を助長することはない」と批判・抗議する人たちがいることについては、前回のエントリーで触れました。

この新聞記事の反響について某SNS上で少し首を突っ込んでみたところ、双方の言い分に「なるほどねぇ…」と感じる部分がいくつかあって、対立ではなく、お互いが足りないこと、いたらないところを補完できるようになるといいよね、なんて思いました。それぞれが選ぶもの、重要視するものが違っていても。

* * * * *


ところで、反原連の官邸前反原発抗議デモに参加したことがある方、すでにビギナーの域を超えている参加者には、今さら説明する必要はないことですが、「官邸前反原発抗議デモ」の主催は反原連(首都圏反原発連合)です。そしてメディア等で取り上げられる「官邸前反原発抗議デモ」の代表格。2014年7月の現在は、この反原発抗議デモの参加者も一昨年と比べると少なくなり、認識としては「官邸前反原発抗議デモ=反原連」で問題ないでしょう。

なぜ、現在は「官邸前反原発抗議デモ=反原連」の認識で問題ないですよ、なんて書いたのかといいますと、福島民友新聞の記事の中で語られる、福島県内で反原発運動を冷ややかに見る向きが多い人の「反原発デモ」のイメージは、たぶん、テレビや新聞などで大きく報じられた昔の「大飯原発(福井県)の再稼働が焦点となった2012(平成24)年夏に20万人集まった」イメージのままなのでは?と思ったから。

あの頃の官邸前反原発抗議デモは、反原連が主催のそのデモに、(勝手に連携とか合流と称して)ほかの抗議デモ団体も集結していた時代。それこそナントカ労働組合とか中核派、革マル派の旗があったり、集団疎開や脱被曝を訴える団体などが官邸前に集まって大騒ぎになりました。で、これをマスコミが「十把一絡げ」にして報じてしまったから、「反原発デモ」のイメージが「あの当時のまま」という人が、実は多いんじゃないのかな?

※2012(平成24)年の夏に20万人集まった頃は、
「官邸前反原発抗議デモ=反原連+その他抗議デモ団体(多数)」です。
大飯原発再稼働の最終承認機関である日本政府を共通の敵として、反原連の官邸前反原発抗議デモに、それぞれの思想と主張、根拠を持つ多くの人と団体が集まりました。(この当時の原発再稼働に疑問や違和感、反感を持ち、原発再稼働反対のシングルイシューで人が集まった)

もしそうだとしたら、福島民友の取材を受けた反原連の主催者団体メンバーが、あの新聞記事に抗議することは、想像するとちょっと合点がいくところなんだよね。なぜなら、反原連の官邸前反原発抗議デモは「原発問題の抗議(それ以外の主張は排除)」がポリシーだから。これが守られているならば、記事中の「そんなところ(郡山)に子どもを住ませるな」という発言は、反原連の抗議デモ参加者ではなく、ほかの団体(たとえば集団疎開とか脱被曝団体の人)からのものかもしれない。

ただ、これって、反原連の官邸前反原発抗議デモに参加したことがない人には(よく事情がわかっていないと)区別されにくいことで、マスコミがひっくるめて「反原発デモ」と報じていることを考えると、「反原発デモ=主張のために福島差別を叫んでしまう人たち(もいる)」と認識されやすいですよねー。

ビギナーレベルの反原発デモ参加者では区別がつかないことだろうし、まして、ただの見物人やお茶の間でテレビを見て存在を知ったような人たちでは、たぶんわからないことだと思います。実際、各抗議デモを横断的に参加する人もいますからねぇ。

※反原連のポリシーを無視した(他の思想を持つ団体や個人の)デモ参加者が、反原連が主催の官邸前反原発抗議デモで声を上げてしまったり、声には出さずとも、他方法により主張を行ってしまうことは実際にありました。
また、反原連の官邸前反原発抗議デモの中で、国会議員になる前の山本太郎氏が「食品100Bq/Kgは放射性廃棄物」とマイクでスピーチした映像が流れたことも。福島県双葉町の井戸川元町長の主張(ほぼ国や政権に対する批判/原発への抗議スピーチの内容ではない)もありました。主催者団体メンバーはこれを止めることはしませんでした。(当時はこれを容認した)

今は反原連が主催の官邸前反原発抗議デモに集まる人は2000人くらいって言われているけど、官邸前に集まる人、抗議活動をしている人、あるいはグループ(エリア)が、反原連なのかどうかは傍目にも区別しづらいところはあるから、どうやって識別するのか・させるのかは、双方にとっての共通の課題でしょうね。

* * * * *


私自身は、官邸前反原発抗議デモに参加したことはないけれど、何度か傍観者としては見ています。ちょっとガラの悪い人とか怖そうな人(笑)はいますけど、反原連が主催の反原発抗議デモ参加者は、総じて「福島差別」を叫ぶような人は少ないです。ここで「少ない」と私が書いたのは、この抗議で行われる表現が差別につながったり、それを手助けしたりするかも?とか、福島に限らず、原発が建っている地域の人が、この抗議の表現を知ってしまったら傷つくのでは?と疑問に思うもの、反感を持つものもあるからなんだよね。

反原連の官邸前反原発抗議デモの中で、太鼓や鈴のリズムに乗せて叫ぶ言葉が「原発いらない。子どもの為に、未来のために」なら全然問題ないのだけれど、反原連の旗がある別の場所でのパフォーマンスでは、「女川反対、東北危ない、地震が来るぞ、津波も来るぞ」なんてコールしているグループもあるんだよね……。

津波被災地の宮城県女川町

『……抗議したい対象は「女川原発」だと思うけど、その場合は、せめて「女川」と端折っちゃイカンのでは? 東日本大震災の大津波で、町全体が壊滅的な被害を受けた女川町(宮城県)の人がこれを聞いたら、気分を害するんじゃないのか?』って、私は思うんだよね。言葉の1つ1つは「差別」じゃないけれどさ。

ほかにも、原発事故を起こした福島第一原発で、地下水の放水が開始されて、漁業の試験操業が開始された間もない時期に「汚染水止めろ、放射能止めろ、海に流すな、福島汚すな」や「桜島爆発するぞ、川内反対」などなどあったりして。差別的示威行為で共感できず、はっきり言って不快で不機嫌になりましたね。

だから、あの新聞記事の内容を読んで「反原連の運動が福島差別を助長することはあり得ない」なんて言われても、これでは説得力がないんじゃないですかね? だいたい、差別を助長するものが必ず差別発言であるとは限らないわけですし。 福島民友の記事にある、「原発デモ」に違和感や反感を抱く人たちがいることは、そういう部分も寄与していると思いますよ。原発に反対でも運動とは距離を置いてしまう人の心、心理を読めなさ過ぎます。

仮に、今は「そんなことをやっていない」といっても、昔は「やっていた(やってしまった)」わけだからね。デモの主催者団体側は、毎週実施していることだから、そういう認識が甘くなってしまうのだろうけど、見る側からすれば、たった1日でも、数時間、数十分でも、目の前で繰り広げられている世界がすべてだからね。

あと、これは主催者団体側というよりは、反原発抗議デモ参加者に対してだけど、反原発抗議デモのポリシーに違反する主張は一切出さない方がいいよ。「怒りの表現」なんていうくらいだから、大声で連呼して心拍数が上がってしまって、つい出てしまうのだろうけど、そういう場で「改憲反対」など全然関係ないことを一言でも叫ばないほうがいい。そういうのは少なくても目立つから。これも違和感を覚える1つだよ。(主催者団体側のガバナンスが不十分、ということでもあるけど)

官邸前反原発抗議デモの中で、声には出さないが、頭に被る帽子や手に持つメッセージボード、うちわ等に「TPP反対」や「オスプレイ反対」、「特定秘密保護法反対」など、原発問題と直接関係ない主張を行う者も参加していた。これを主催者は容認していた。これも福島民友新聞の記事に書かれている「運動の継続のため」の1つにあたるのかもしれない。
(主催者の公式アナウンスでは、参加者に対して反原発抗議のポリシー以外の主張は遠慮をお願いしているが、参加者全員が必ずそれを尊重してくれるとは限らず、察するに、これはなかなか頭の痛いところとは言える)

私としては、あの福島民友の記事に書かれている内容は、起きている事象を表す・把握するためのものとしてはいいのかなって思うんだよね。反原連デモの参加者から出た言葉じゃなくても、同じ官邸前反原発抗議デモの中(場所)から発せられた言葉だから。反原連のデモに関わらず、「反原発デモ」をそのように見る人・見えている人は全国的に結構いると思いますよ。

■官邸前原発再稼働反対デモに感じた違和感 「社会科学者として」より


――当事者ではない人たちが介入し、その結果生まれるかもしれない電力不足のリスクを引き受けないということは、やはりおかしな感じがするのである。

反原発デモが行われている首都圏に電気を送っていた東京電力の原子力発電所事故。その大きな被害を近い場所で受けた人たちが感じる違和感や反感さえも受け止めず、またその声を聞きもせず、時には否定さえもして、3年以上経過した今、福島県の新聞に記事として載ったことを、反原発に対する「貶めである」とだけ思わずに、少しは考えてほしいとも私は思い願っています。このことが対立ではなく、みんなにとってよいキッカケになりますように。


※というわけで、前回のエントリーに転載した福島民友の新聞記事を、あらためて以下にリンクを貼っておきます。

■官邸前反原発デモについて(新聞記事内容の転載)
http://hamayu.cocolog-nifty.com/column_diary/2014/07/post-a47d.html

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コメント

反原発デモが福島差別を
助長するようなことはありません!

福島から避難してきた方も
参加されているではありませんか。

原発が事故を起したら大変なのが
わからないのですか?
私たちにも当事者性が有るから
声を上げているのですよ。
あのようなクソ記事は信じません。

デモに集まった多く方々は、
福島の事故に誰も責任を取らず、
福島県民を棄民状態にした侭の政府が
無責任にも原発行政を続ける事に
「怒り」「戸惑い」「疑問」「不安」を
表わしたデモなのです。
私もその意識で参加しました。

また、原発立地自治体は
原発がないと生活ができない
「お金の亡者」であることも明白。
それを断たなきゃいけないんですよ!

違和感を感じるのはあなたも
原発推進派だからでしょう!

投稿: kasuhiroe | 2014/07/09 14:49

kasuhiroeさん、こんちは!
コメントありがとうございました。

福島から避難してきた人たちが、反原発デモに参加していることを根拠にして「福島差別を助長するようなことはない」とは言えないのでは?と思いますよ。

また、「当事者性の有無」で語らないほうがいいんじゃないですかね?
おっしゃる通り、みなさん当事者(のはず)ですからね。

東京をはじめ首都圏に電力を送っていた福島県にある原子力発電所事故の当事者性が濃いのは、原発が建つ立地自治体であって、事故を起こした場合もそれは同じ。まず大きく直面するのは原発立地自治体です。事故が起きたときに被害をより多く受けます。

対して、その発電所から電気を受け取る東京をはじめ首都圏の人たちも当事者ではありますが、直接的な影響を被る当事者性は同じではなく違います。原発立地自治体と、その電気を消費する東京をはじめとする首都圏の当事者性の濃い/薄いが逆転することはありません。東京をはじめとする首都圏の人たちの当事者性が濃くなるのは、電力不足のリスクや地域経済のリスクに直面する時だけですから。
(ちなみに、大阪をはじめとした関西広域連合は、その点で福井県の大飯原発の再稼働を容認しました)

主催者団体の主要メンバーが「原発事故に県境はないが、自分も事故の当事者という意識が希薄な人がいる」と認めているようですが、そもそもの話、事故が直接的に東京をはじめ首都圏の人たちに影響をおよぼす範囲は原発立地自体のそれと比べかなり範囲は限定的ですから、当事者意識が薄いのは当たり前。むしろ、等しく当事者意識を持て!というのは無理があると思いますよ。(だから仕方がない、とは言わないけど)

無論、多くの人が原発事故の不安を持ち、それこそ原発自体が無くなった方がよい、と考えていることも理解はいたします。

しかし、上述したように、ほとんど影響を受ける可能性が低い地域にいる人たちが、極めて大きな影響を受ける原発が建つ地域で暮らす人たちの「今まで引き受けてきた」覚悟とリスクをも急に否定し出し、それこそ、あなたのコメントにある通り「原発立地自治体=金の亡者」であるなどとも言い出す。

その上で、東京をはじめ首都圏に電力を送っていた東京(東電)の事故を起こした原子力発電所が福島県にあったからといって、私が書いた記事のような、(差別を助長しかねない)その地で暮らす人の気分を害する(尊厳を傷つける)ような抗議の表現は許されるのでしょうか? 私にはやはり違和感がありますね。

それから、反原発デモを批判したから、原発推進派である、というのは、勝手な思い込み・決めつけですよ(笑)。

投稿: 濱祐 | 2014/07/09 20:48

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