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2015年1月に作成された記事

「遊就館」見学と靖国参拝問題(ちと考えた)

昨年6月、靖国神社へ初めて足を運び、今年の1月になってから、念願だった同神社の史資料館「遊就館」をようやく見学することができました。

遊就館

毎年のように首相をはじめ、国会議員の「靖国参拝」がクローズアップされるのだけど、何を問題として捉え、懸念を表明したり、批判をしているのだろうか?と疑問を持ったことがキッカケでここを訪れたのです。

まぁ、問題視する・される、およその見当は付いているのだけれど、実際に靖国神社を見たことも行ったこともないのに、その賛否を語ったり、その姿勢を決めてしまうのはどうなの?とか、他人の意見や批評で判断するのは、特にこの件ではそれって「無責任だよなぁ…」と思ったからなんですよねぇ。。。

※ちなみに、昨年6月に訪問した靖国神社を初散策した感想・印象は下記を参照。
■東京・靖国神社を初散策(2014/6/30)
http://hamayu.cocolog-nifty.com/column_diary/2014/06/post-0f49.html

靖国神社

靖国神社の歴史は、幕末から明治維新にかけての「大変革」の過程において、不幸にも国内を戦場とした戊辰戦争が起こり、明治天皇がこの戦いで多くの尊い命が失われたことに深く心を痛めたことに対して、その戦いに勝ち残った時の政府が、日本という「国家」を創設するために一命を捧げられた人々の霊魂を鎮めようと、東京・九段下に“東京招魂社”を創建したことに始まります。

その後、明治天皇の命によって、日本全国の「招魂社」の社格は「神社」に昇格・別格官弊社に列記され、東京招魂社は「靖国神社」と改名。以後は西南戦争、日清戦争、日露戦争、そして太平洋戦争と、近代国家日本の礎になった殉難者・戦死者の霊魂を鎮め祀っています。

なお、ここに祀られる霊魂は、基本的に天皇のために戦って亡くなった人々とされており、幕末の志士では吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作などは「靖国の神々」として祀られていますが、明治維新(国家創設)に大きく貢献した西郷隆盛は祀られていません。

これはつまるところ、西南戦争は、明治政府と意見が対立した西郷隆盛らの薩摩藩士(鹿児島県の士族)による内乱・内戦であり、「天皇の命により、国家の危機にその命を捧げた人ではなく、また国家の忠臣でもない」という理由・基準によるもので、その結果、西郷隆盛は祀られなかったというわけです。(祀られるための要件は、国家に対する功績の有無ではないということですね)

遊就館(玄関ホール)

さて、前置きが長くなりましたけど、これから遊就館の展示について触れます。ここは靖国神社の歴史観に沿って、さまざまな資料が展示されています。

遊就館の展示内容は、そもそもの竣工・開館が東京招魂社の時代ではなく、靖国神社に改名されてからの時のせいか、西南戦争あとの日清戦争、日露戦争、満州事変、盧溝橋事件から始まった支那事変、大東亜戦争(第二次世界大戦/太平洋戦争)からの敗戦・終戦までの内容が、非常に細かく解説されており、資料も多過ぎるくらいの充実ぶりです。

靖国神社の創設と誕生を考えれば、日本が対外的に行った戦いはすべて正当である、という肯定の精神に貫かれている展示内容は、特に不思議を感じたり、違和感を覚えるものはありませんでした。これは「そういうものだ」という先入観や前提が、すでに私の中にはあったからでしょう。現代までの日本という国家の歩みを靖国神社は否定する立場にない、ということを展示内容に感じました。よく言えば、ありのままを包み隠さずに見せています。

あと、展示物の多さに関して、私が気になったというか、とても感心させられたことは、たくさんの人の協力があったからこそ、これだけ多くの展示物が集まったのだなぁ、ということ。ゼロ戦などの兵器が展示されていたりしますけど、割れたヘルメットなどもあって、多くは過去の戦争を肯定したり美化するために、遊就館に提供された資料じゃないことがうかがわれます。

まぁ、展示されている内容が、どうしてもパッと見た目として、「戦争・戦史博物館」に見えてしまうところは否めないのではありますが。。。

遊就館(玄関ホールの展示物)

遊就館の展示は、過去の戦争を美化・賛美するものであり、首相や国会議員の靖国参拝もまた、過去の反省もなく、それを肯定するものである、というような意見を耳にしたり、あるいは目で見たりすることがあります。

特に首相の靖国参拝は、中国や韓国が激しく反発し、米国政府が「失望」を表明したほか、欧米のメディアも厳しく批判し、こうした海外の反応を受けて、国内でも外交や経済への影響を懸念する声を発する一方で、逆に反発する人たちの存在もあります。

当時の靖国神社が、国民を戦争に動員するシステムの頂点にあったことは私も認めるところです。国家のために命を捧げて死ねば、靖国神社に祀られて、天皇陛下が参拝して下さる。これが日本国民として最高の名誉であり、喜びである――そのように(教育によって)信じ込まされていたことでしょう。

でも、当時の靖国神社が、国民を戦争に動員する酷い仕組みであることは理解できますが、A級戦犯の合祀や首相の靖国参拝に関しては、結論として、どちらかというと肯定的に捉える立場に位置する考えを今回で持ちました。なぜなら、過去の戦争史観のことよりも、私は「招魂社」と「神社」の成り立ち・役割を無視できなかったことが大きかったからです。

ことさら「A級戦犯を祀ること」は、それを「崇め祀ること」、すなわち「崇拝」であると強調され、これを問題視・危険視されているようですが、最初の方で(さらっと)述べているように、日本の神社(神道)というものは、他の宗教施設とは違い、祀られる対象である神は、崇めるよりも前に、まずは「崇り(たたり)を封じる」ことが優先され、それを目的として建てられる日本古来の政治的な施設です。他国の宗教とは神に至る道・崇められるまでのプロセスが違います。

靖国神社(本殿屋根)

靖国神社の成り立ちは、福岡県の太宰府天満宮に似ています。違いがあるとすれば、靖国神社は霊魂の集合体を、太宰府天満宮は菅原道真公の霊魂を祀るだけ。

靖国神社のA級戦犯の合祀を問題にされる人の中には、A級戦犯の「分祀」を主張します。ですが、神社(神道)には外科手術的な「分祀」なる方法は存在しません。仮に都合よくA級戦犯だけを分離できても、靖国参拝を批判する人たちは「分祀すれば(取り除けば)参拝してもよろしい」とは言っていないように思えます。

靖国神社じゃなくても、千鳥ヶ淵でいいじゃないか、という人もいます。中には、「分祀=千鳥ヶ淵」の人もいますけど、千鳥ヶ淵は身元が分からなかったり、引き取り手のない戦没者の遺骨等が納められている戦没者墓苑です。「神社」は「お墓」ではありません。(この違いの意識・認識が、そもそもない上での批判や意見のように思います)

また、明治7年に神田明神で行った平将門命を将門神社に遷座した例を「分祀」として主張される方がいるようですが、ご神体にあたる霊魂の依り代(霊代/みたましろ)が、それぞれに分けられて祀られていた神田明神の場合と、1つの依り代に霊魂が「合祀」されているとされる靖国神社の場合はケースが違います。(当時の神田明神の合祀は2柱二座制/現在は3柱三座制ですが、靖国神社のA級戦犯の御霊を含む合祀は246万6584柱一座制です)

つまるところ、靖国神社に対するA級戦犯の分祀論というものは、神道という宗教に対して、合祀された1つの依り代から特定の霊魂だけを抜き出す技術や儀式をあらたに作れ、という要求・話であろう……とも私は理解、認識しています。

さて、仮に靖国神社から分祀できたとして、あらたに千鳥ヶ淵か、あるいは、ほかの場所の「神社/社(やしろ)」に霊魂を移ってもらう、あるいは神社に祀らず、別の政府慰霊追悼施設を作るとしましょう。「A級戦犯が~」という人たちは、靖国神社でなければ(天皇や国家のために命を落とした戦没者の鎮魂のために首相が手を合わせても)納得してくれるものなのだろうか? という疑問も残ります。

戦争史観だけであれば、私も納得・妥協はできたでしょうけれど、そもそもの神社の成り立ち、他国にはない日本固有の宗教・信仰文化であることを考慮すると、それには容易に同意できないんですよねぇ。

「荒魂を鎮めると和魂になる」という考え方・捉え方が、日本における信仰の全般には流れています。山岳信仰などの自然崇拝や、先祖供養の先代崇拝もベースは同じで、ひとつの霊魂・対象(神)には大別して、相反する2つの側面があるとされています。

他の宗教で似たような概念は、たとえば「堕天と復天(昇天)」がありますけど、その考え方に当てはめると、「荒魂は悪であり、和魂は善である」という論理・認識で、(単純に)悪を崇拝・信仰するのは理解し難い、ということかもしれません。神社としては「崇拝」ではなく「鎮魂(慰霊)」のお祈りやお祭りの方が重要なのですよね。。。
(他国・他文化では、祀られる神様=よい神様なんだろうけど、日本の神社における神様は、祀られる→害を出さないように鎮める→益をもたらす神様に変化する、なんだよねぇ……)

靖国神社は、かつて国民を戦争に動員したシステムの頂点・象徴として批判しやすい・されやすいとは思いますけれど、戦争史観やA級戦犯(東京裁判)、海外の反応を受けて、あるいは外交や経済への影響を懸念する声だけでなく、「神社」という文化や信仰に対する視点と考察、あと、「これから」のことを加えた上で、議論が進むといいなと思っています。話題になる靖国神社の話って、それらがすっぽり抜け落ちていて、ちょっと歪んだ感じがしています。現在は普通の神社なんですけどね。

靖国神社

さて、(A級戦犯の)合祀とか分祀については以上のような見解の私ですが、首相の靖国参拝については、たとえば中国政府の主張を借りますと、「靖国神社は戦死者を“英霊”として祀り、戦争自体を肯定的に捉えている。そこに公的な立場にある者が公式に参拝するということは、つまり日本政府としては、靖国の歴史観を公的に追認しているのでは?(というより、追認しているよね?)」というようなことは、まぁ、そういう部分・解釈はあるよね、という感じです。

ただ、「戦死者を“英霊”として祀る=戦争自体の肯定である」という論理が私にはよくわからないのだけど、少なくとも「靖国神社は戦争自体を肯定的に捉えている」という主張は否定してもよい部分だと思います。なぜなら、遊就館の展示内容は、歴史・史実は肯定的に捉えているけれど、戦争自体を肯定するものではないからです。

それから、私的には「戦死者を“英霊”として祀る=戦争自体の肯定」という論理で気になるところは、ここでいう「英霊」という言葉が、諸外国に伝わる時に、どのように翻訳されているの?という点です。ひょっとして、私たちがイメージする「英霊」とは違うものになっていないだろうか?

実際に「戦死者を“英霊”として祀る」を英語圏では「戦死者を“軍神”として祀る」と伝えていたりするものだから、そのあたりの誤解(誤訳?)も、この問題を大きくすることに手を貸しているのかもしれません。(英霊と軍神は違いすぎる……orz)

もしそうであるならば、日本の首相が「靖国神社には大変な誤解がある。靖国には戦争のヒーローがいるのではない。(私が参拝する理由は)ただ、国のために戦った人々に感謝したい思いがあるだけだ」と、ダボズ会議でそのように訴えた理由が理解できます。

「英霊を祀る=A級戦犯」のイメージが強い靖国神社の神様ですが、その神様を構成する内訳を遊就館の展示で見てみると、「軍神」や「戦争の神」という言葉で翻訳されるのは不適切だよなぁ……と私は思いましたね。

遊就館

私たちが靖国神社に参拝して、遊就館の展示を見たからといって、過去の戦争を美化したり、賛美する人は少ないんじゃないかな、と個人的には思います。また、すべてを無条件に肯定する人は皆無じゃないですかね。特に遊就館を訪れて、靖国神社が語る歴史を見る人は、正確な知識と情報を得ようとして見学に来ている人がほとんどのように見えました。

遊就館の展示資料は非常に多く、これをじっくりと真面目に1つ1つを見るとすると、丸1日は潰れてしまうのではないだろーか? 私は駆け足気味の見学で3時間くらい館内にいたけど、すべてをきちんと見た気が全然しません。

遊就館は、いつか再び時間を作って訪れたい史資料館の1つになりましたね。
世の中の声や空気ではなく、本当のところはどうだったのか、私は知りたいだけですし、自分自身で選択したいだけだから、その判断材料の1つという感じで。よい博物館だと思いますよ。

最後に、これは靖国神社と遊就館に限ったことではありませんけれど、こういった施設に対して「反省がない」とか「反省の色が見えない」と感じる人がいます。私の感覚からすると、十分に過去を振り返って考えることができる施設であると評価していますが、おそらく「反省がない」と言ってしまうのは、その施設自身の内面に対して、それが向けられていない、と感じるからだろうと想像しています。

つまり、靖国神社と遊就館は、ここを見る者、訪れる者に対して、過去を振り返って「反省を促す場」としての評価と、靖国神社と遊就館の姿勢や態度に問題がある、それに気がつかないのか、という「苛立ち」の評価があるのだと理解しています。「ここは過去の戦争を美化している」という人は、きっと後者の評価が強いのでしょうね。

現代における靖国神社の「ややこしさ」というのは、坂本龍馬の墓所は京都にあるけど、霊魂は靖国の神々の1つとして祀られていることや、第二次世界大戦のA級戦犯として法務的に処刑された人たちの(各故人の骨壷が納まった)お墓は日本国内には存在しないけど、霊魂だけは靖国の神々として祀られて、でも、位牌だけはカトリックの総本山、バチカンのサンピエトロ大聖堂にあることなどに集約されています。

こういうことって、異文化・異教徒の外国人のみならず、日本人でもワケわからないって人、たぶん多いとは思います。でも、この神社の由緒を忌み嫌わずにそのまま受け止める世代の人たちがいることを、私も見ていて感じるところです。その存在は神社と一緒に認めていいと思います。

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慰安婦報道の元朝日新聞記者の会見

記者会見の映像を見ましたけど、この人が裁判で争えることは「捏造記者か否か」の名誉棄損のことだけであって、やはり記事の「不正」ではないのだなーと。
(下の写真をクリックすると写真の弁護士ドットコムのページに飛びます)
弁護士ドットコム

この元朝日新聞記者がやったことについては、私はあまり擁護できませんけれど、考えられる酌量できるようなポイントは、下記の江川紹子氏が書かれているようなところかな、とは想像しております。

【コラム 江川紹子】慰安婦と捏造(2015年1月14日)より

この記事が出た頃は、男性の韓国旅行と言えば、多くが売春ツアーで、「キーセン旅行」「キーセン観光」などと呼ばれていた。「キーセン」と言えば、売春がイメージされた時代である。元慰安婦の女性が元々売春婦で自ら進んで慰安婦になったような誤解を受けないように、という植村記者の配慮が働いたかもしれない。もしそうだとしても、それは「捏造」なのだろうか。

ところで、捏造記者のレッテル貼りをされている問題の元朝日新聞記者がやったことですが、捏造バッシングの話題が大きい割には、肝心の「この記者がやったこと」についてはあまり知られていないものかもしれません。というわけで、まずは以下に元朝日新聞記者が書いた問題の記事を引用いたします。

■朝日新聞「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」 平成3年(1991年)8月11日付記事より


日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。

尹代表らによると、この女性は六十八歳で、ソウル市内に一人で住んでいる。
(中略)
女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にされた。ニ、三百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。五人の朝鮮人女性がおり、一人に一室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校の相手をしていた。残りの四人が一般の兵士ニ、三百人を受け持ち、毎日三、四人の相手をさせられたという。「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思いつづけた」という。また週に一回は軍医の検診があった。数ヶ月働かされたが、逃げることができ、戦後になってソウルへ戻った。結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしている。

この記事のあとに、同年12月25日付の記事でこの生存していた元朝鮮人従軍慰安婦の境遇が伝えられますが、8月の記事で伝えられる境遇と食い違う記述になっています。(これについては、話が長くなってややこしくなるので割愛しますw)

上に引用した8月の記事の中に太字で示したところがあります。これを裏付ける詳しい内容は、その後の新聞記事には一切ありませんが、同年12月6日に東京で起こされた「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」の訴状の中に、上記の朝日新聞記事に登場した元朝鮮人従軍慰安婦の原告の訴えとして記載されておりました。要点だけ以下に引用いたします。
(ちなみに、この訴訟を起こした弁護士の1人に、福島瑞穂氏の名前があります)

■「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」訴状より


家が貧乏なため、女性も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。○○○という人の養女となり、一四歳からキーセン学校に三年間通った。

一七歳(数え)の春に養父に連れられて中国へ渡った。

養父とはそこで別れた。女性らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。そのとき初めて「しまった」と思った。
(中略)
「心配するな、いうとおりにせよ」といわれ、そして、「服を脱げ」と命令された。暴力を振るわれ従うしかなかったが、思い出すのがとても辛い。
翌日から毎日軍人、少ないときで一〇人、多いときは三〇人くらいの相手をさせられた。
(中略)
部屋の中では、中国人の残した中国服や日本軍の古着の軍服を着させられた。週ないし月に一回位、軍医がきて検診を受けた。
(中略)
人生の不幸は、軍隊慰安婦を強いられたことから始まった。金をいくらくれても取り返しのつくことではない。日本政府は悪いことを悪いと認め、謝るべきである。そして事実を明らかにし、韓国と日本の若者にも伝え、二度と繰り返さないことを望みたい。

つまり、訴状の内容を読む限り、元慰安婦の女性は貧困のために養女に出され、さらに養父から日本軍に引き渡された。そして、原告の女性が考える自分の「人生の不幸」の始まりは、日本軍へ引き渡されてから、との認識である。

……養女に出した親も、育ての親も責められない、ということかもしれないが、これを一足飛びに、私の不幸は慰安婦を強いられたことから始まった、となるものなのか。(それだけ慰安婦の日々が酷かった、ということではあろうけど)


話を本筋に戻しますと、これらの材料を揃えた上で、2014年8月に報告された朝日新聞の第三者委員会の判断では、記事中にある「女子挺身隊の名で戦場に連行され」との事実はないと指摘され、これに従い朝日新聞はおわび、訂正を行っています。
また、同記事中の元慰安婦がキーセン学校に通っていた経歴を知りながら触れなかったことについても「書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある」とも批判しています。

■朝日新聞第三者員会報告(要約)「名乗り出た従軍慰安婦記事について」より


元朝日新聞記者は、記事で取り上げる女性は「だまされた」事例であることをテープ聴取により明確に理解していたにもかかわらず、同記事の前文に、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり」と記載した。これは、事実は本人が女子挺身隊の名で連行されたのではないのに、「女子挺身隊」と「連行」という言葉の持つ一般的なイメージから、強制的に連行されたという印象を与えるもので、安易かつ不用意な記載であり、読者の誤解を招くものである。

なお、1991年8月15日付ハンギョレ新聞等は、女性がキーセン学校の出身であり、養父に中国まで連れて行かれたことを報道していた。1991年12月25日付記事が掲載されたのは、既に元慰安婦などによる日本政府を相手取った訴訟が提起されていた時期であり、その訴状には本人がキーセン学校に通っていたことが記載されていたことから、元朝日新聞記者も上記記事作成時点までにこれを知っていた。キーセン学校に通っていたからといって、女性が自ら進んで慰安婦になったとか、だまされて慰安婦にされても仕方がなかったとはいえないが、この記事が慰安婦となった経緯に触れていながらキーセン学校のことを書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある。判明した事実とともに、キーセン学校がいかなるものであるか、そこに行く女性の人生がどのようなものであるかを描き、読者の判断に委ねるべきであった。

キーセンについては、前述の江川紹子氏が語る通り、悲しくも「売春」がイメージされるのではありますが、それが必ずイコールで慰安婦に結び付くとは限らないし、私としてはキーセン学校に通っていた過去が(本筋として)あまりジャッジに影響することはないけれど、この問題で重要なのは、女性は「誰に」だまされてこうなったの?だと思うんだよね。少なくとも「女子挺身隊」の名で戦場に連行されてないよ、この女性は。

率直な感想を言わせていただきますと、これは印象操作が過ぎます。

他の言語もそうなのかはわかりませんが、日本語の特徴は主語を示さなくても、(受け手が勝手に脳内で補完して)話が出来ること。この主語がよくわからないまま話が進むことはとても多いと私も思います。そういった場合は事実だけを確認すると全体像がこのように見えてくるわけです。

従軍慰安婦の問題を提起する際に、こういった印象操作が必要なのだろうか。どうしてもセンセーショナルに仕立てないとダメなもの?話題にしてもらえないから?読者が誤解するのが悪いの?それとも誤認させたいの?事実ではなくて感情を伝えたかったの?でれば、事実を明らかにした上では出来ないことだったの?

問題の元朝日新聞記者に限らず、こういうことは報道各社、本当にやめてもらいたいと私は思います。あらゆる報道に対して、みんな疑い出しますし、読者の思考の負担を増やして疲れさせるだけ。新聞の価値を見出せなくなりますよ。
(つーか、吉田調書に続きまたか、もとい、昔からこうだったのか……と)

東日本大震災の、特に東京電力の福島第一原発事故に由来する決めつけられた福島の風評被害報道で覚えた不快感とこれは一緒で、この事実を知ったとしても、従軍慰安婦そのものを肯定するわけでもなく、過去の日本人が許されるわけでもありません。それとこれとは、まったく別の話です。

ついでに言っておきますと、問題の元朝日新聞記者に対する家族への誹謗中傷なんて、私は仕方がないとは全然思いませんよ。元朝日新聞記者が捏造記者か否かについては、当事者同士で勝手に憎悪を募らせてやりあってください、という感じ。
どちらの結果に転んでも、元朝日新聞記者がやったこと、本当のことは変わるわけではありませんから。

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サイボーグ009完結編conclusion GOD'S WAR

この本を買って読んでみようと思ったキッカケは、後述する石ノ森萬画館の特別企画展「サイボーグ009ワールド展―50年の軌跡―」で展示されていた、このマンガのラストシーンの生原稿が数ページ展示されていたから。これはあとでじっくり時間をかけて読んでみようと思ったのです。

サイボーグ009完結編conclusion GOD'S WAR

サイボーグ009完結編conclusion GOD'S WAR は、009たちサイボーグ戦士を作り出した世界規模の軍産複合体「ブラックゴースト」(正確にはブラックゴーストの理念を実行するための組織)を壊滅させた後の話です。

前作のマンガやアニメーションをご存知の方には説明は不要ですが、ブラックゴーストの本質は人々の欲望であり、闇の側面そのものですから、これは決して消えることがなく、何度でも集合して再編されてよみがえるものです。
本作完結編のconclusion GOD'S WAR では、この「闇の側面」をまず「神」として表し、これにサイボーグ戦士たちが立ち向かいます。つまり、人々の中にある「悪意」や「闇」と対決するわけです。

天変地異を起こす「神」の軍勢に大敗し、スキルアップしてどうにか軍勢を後退させたが、その後、神々からの攻撃は精神面からも行われ、かろうじてそれを跳ね返し、さらなるスキルアップ「Cyborg(改造人間)」から「PSI-borg(超能力を持った改造人間)」へと進化して「神」との最終決戦に突入する――。

009 RE:CYBORG を見たときにも思ったけど、サイボーグ009シリーズ作品のモチーフには「正義」と「悪」のほかに、本当に「神」という存在を、嫌応でも考えさせられるなーと。

「神」を考えるといっても「神学」ではなく、哲学的なあらゆる領域を網羅して、人の立場から「神」を考えて1つの答えを出したものがサイボーグ009という作品です。もっとも、この完結編を書き上げる前に石ノ森章太郎は他界してしまい、この構想を綴ったノートから原作者の息子がまず小説化、そしてマンガとしてビジュアル化したわけではありますけれど、これが原作者・石ノ森章太郎の表現(解釈と答え)なのでしょう。

善と悪、光と闇。人は普通、これらの両極の概念の狭間にあるもので、その中間のどこかで自分の立ち位置を探して定めようとします。主人公・島村ジョーのラストの叫びは、まさに「中庸」の結論です。石ノ森章太郎は、決して「天才向け」の結論を出さなかったところが素晴らしい。このように私が思うわけは、天才というのは神に等しく、両極端に(同時に)存在できる人だと思うからなのだけど。

石ノ森萬画館の入場券と50周年記念缶バッジ

さて、最初にお話した、この本を読むキッカケになった石ノ森萬画館の特別企画展「サイボーグ009ワールド展―50年の軌跡―」ですが、開催期間は2014年7月17日~9月28日までと、もう既に終わっております。各サイボーグ戦士たちを名セリフで紹介する最初の展示コーナーを見ただけで、今までの名場面がよみがえり、涙が出てきそうになるくらい、オレはサイボーグ009のファンだったのかwwwなどと、ちょっと自分自身に驚きました。また節目に、この企画展示をやってくれないかなー。

中年のオッサンが、子どもたちに混ざってクイズに答え、ちゃっかりと写真の50周年記念缶バッジ(非売品)もいただきました。これも含めてサイボーグ009は、よい思い出です(笑)。


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