イスラムを理解するために
「ISIL」などと呼称される、過激派主義集団のいわゆるイスラム国のニュースを受けてから、日本国内でも誤った理解・認識のもとで、さまざまな心を痛める出来事が起こっています。イスラム教徒の方々が「あれはイスラムではない」と言ったところで、大多数の日本人はそれを理解することは困難でしょう。なぜなら、現在のイスラム思想は、キリスト教以上の多様性と広がりがあるからです。
それは個々のテーマに関わる主張の違いに着目すればわかります。国や地域、部族(家族)単位によって、そのイスラムが何を命じ、何を禁じているのかさえ、私たちは知らないでいるのではないでしょうか? かくいう私も多くは知らず、旅行のたびに学習&復習しているような状態なのではありますが。
このブログのエントリーでは、少しだけ(といっても長文ではありますが)イスラム思想の源流をご紹介しようかな、と思って書いてみました。基本的なイスラム理解につながれば、と願うばかりであります。。。
イスラム教徒(ムスリム、ムスリマ)にとって、神の言葉であるイスラムの根本聖典「コーラン(クルアーン)」は、神が万物の創造主・支配者であることを強調し、人間に神への絶対的服従(イスラム)を呼びかけています。
やがてこの世には終末が訪れ、人間は審判にかけられるが、この最後の審判に備える唯一の道は神の命令に服従することである。審判の結果、天国で永遠の至福の生活を送れるか、地獄で永劫の罰を受けることになるかは、ひとえに各人の現世での生き方にかかっている。加えて「コーラン」では、現世における共同体(ウンマ)の繁栄と没落もまた、神の命令に服従するかどうかに応じて決定されると説いています。
神は、天地創造に際して宇宙全体に命令を与え、自然界や天使は無条件でこれに従うことを決めた。しかし、人類の祖とされるアダムだけは神と特別な契約を結び、神に強制されない自由を得ることができました。神の命令に従わない自由がありながら、あえて従うことができれば、いくつかある天国の中で、より高次の天国が約束されたためだからです。
でも、現実には人類は神の命令に逆らい続け、最初の預言者(使徒)アダムは神の命令に背いて楽園を追われ、そのあと神に選ばれた預言者たちも、ほとんどは人々に受け入れられることはありませんでした。アブラハム、ノア、モーセ、ダビデ、イエスらの宣教はそれでも一定の成功を収めたが、彼らに従った者たちは、今度もまた神の命令を著しく歪めてしまった……と、イスラムの根本聖典「コーラン」には記されています。
このままでは人類に完全な救済はない。けれども神は最後にムハンマドを選んだ。そして彼に従う信徒はやがて、啓示された神の命令を正確に保持し、それに従って生きることを使命とする、ひとつの共同体を組織するに至りました。
ただ、このムハンマドの共同体が、政治とは無縁の単なる教団・宗教には留まり得なかったことに問題があったと言ってもよいでしょう。なぜなら、メッカで厳しい迫害を受けたムハンマドが、彼を信じる者たちと共に故郷を離れ、かねてより招請を受けていたヤスリブ(現在のアラビア半島のメディナ)の町に遷行したのをきっかけに、ムハンマドが受け取る啓示の中身は大きく変わったからです――
ここまで読んだ方、途中でアレ?と思った方もいるでしょう。すでにおわかりの方もいっらしゃるとは思いますが、イスラム思想はユダヤ教とキリスト教、旧約聖書と新約聖書の続きの世界、あるいは枝分かれ・その先の新しい思想です。つまり、思想としての源流は同じものなのです。
※ユダヤ教とキリスト教、そしてイスラム教の神が一緒である、という話を聞いたことがある方もいらっしゃると思います。(でも、ユダヤ教徒やキリスト教徒は基本的にイスラムを姉妹宗教、まして、自分たちの神と同一であることを認めようとはしません…)
迫害の続くメッカを逃れた、ヤスリブでのムハンマドは、メッカにいた時と同様に、預言者として神の命令を人々に伝え続けただけでなく、新たに政治指導者や裁判官としても活動することになりました。これに伴い、啓示の中身も神への感謝や親孝行、弱者救済といった道徳規範ばかりでなく、相続や婚姻にかかわる法規定、あるいは犯罪に対する罰則規定など、日常生活における具体的な法規範まで含むようになっていきました。これがイスラムは(イスラム教という)宗教だけにあらず、といわれる理由です。
イスラム共同体の存在理由が、地上に神の命令を具現することにある以上、この共同体は、これらの法規範によって統治されなくてはなりません。当然、法による統治を実現するためには、なんらかの統治機構が不可欠となります。かくてイスラム的に生きることは個人の問題に留まらなくなり、政治と社会にかかわる課題と考えられるようになりました。イスラムの共同体が正しく神の命令に従っているかどうか、政治と社会の現実がイスラム的であるかどうかが、来世において救われるかどうか、現世にあって共同体が繁栄するかどうかまでを左右する一大事となったのです――
こうした文脈の中で、イスラムの思想家たちは、まず服従すべき神の命令を明らかにする作業に取り組みました。なぜなら、「コーラン」には限られた数の法規範しか存在しておらず、「最後の預言者」ムハンマドの死によって啓示が途絶えてしまうと、新たに起きた事態にどう対処すれば神の御心にかなうのか、残された人々自身が判断せざるを得なくなったからです。中でも深刻だったのは、ムハンマド没後のイスラム共同体を誰が指導すべきか、という火急の問題に対する答えが「コーラン」ばかりか、生前のムハンマドの言動の中にも見出せなかったことでした。
この「ムハンマド没後の指導者を誰にするか」という問いの回答をめぐり、イスラム共同体は大きく分裂、現代の「シーア(派)」や「スンナ(派)」といった、キリスト教でいうところの「プロテスタント」と「カトリック」、あるいは「東方教会」などといった宗派が多く存在することになったのです。
※イスラム教における二大勢力(宗派)は「シーア」と「スンナ」ではありますが、その中でもさらに派が分かれていて、例えば、シーアの中の一派として「イスマイール(イスマイール朝/派)」とか、スンナの「セルジューク(セルジューク朝/派)」というような感じになっています。 なお、「ISIL」などと称される集団は、スンナの原理主義者集団の中の、特に急進的な過激思想集団の一派です。
「ISIL」などと呼称される、過激派武装集団の登場により、さらにイスラムに対して誤った知識を持たれがちのようなので、ここでは大きな誤解の1つだけを取り上げておきます。
イスラム原理主義者(集団)は、必ずしも過激派武装集団ではありません。穏健派の原理主義者も多くいます。むしろ、過激派の原理主義者は少数です。これは現在の日本国内における護憲派(特に護憲信者)や、反原発(脱原発)主義者、沖縄基地移転反対、反レイシズム集団などを思い浮かべればわかることです。それぞれの原理主義の思想を持っている者たちが、すべて過激な行動に訴える人たちである、と断言したら、それは暴言になるでしょう。
イスラムは怖い、攻撃的(暴力的・好戦的)というイメージは、中東でしばしば見られるテロや内戦の影響でしょうか。たしかにイスラムの名のもとに、暴力行為に出る人々がいることは否定できません。しかし、そのことはイスラムそのものが暴力的であるということは意味しません。
欧米のキリスト教国の政治家から(昔は)よく言われていたことですが、たとえば「目には目を」という掟が「やられたらやりかえせ」という意味であり、これがイスラムの好戦性を示すものだと説明されることがありましたが、この言葉が「コーラン」の中ではどのように使われているのかを、みなさんはご存知でしょうか?
■コーラン(五章四十五節)
我ら(神)はあの中で(ユダヤ人に与えた「律法」の中で)次のような規定を与えておいた。すなわち「生命には生命を、目には目を、鼻には鼻を、耳には耳を、歯には歯を、そして受けた傷には同等の仕返しを」と。 だが、(あなた/被害者が)これ(報復)を棄権する場合は、それは一種の贖罪行為(罪滅ぼし)となる。
ここからわかることは以下の3つ。第一に、ユダヤ人に与えた、という注釈にある通り、この掟はイスラム以前に存在するものであること。第二に、「目には目を」という言葉の意味は、やられたらやりかえせ、という意味よりも、過剰な報復を禁じたものであること。つまり、「同等の仕返し」だけが認められていることを意味します。そして、もっとも重要な点としての第三に、イスラムはこの「同等の仕返し」をする権利を認めるけれど、その権利を放棄すること、つまり、相手を許すことをむしろ勧めている、ということがわかるのではないでしょうか?
ちなみに、同じく「目には目を」について、キリスト教では次のように説かれています。
■マタイによる福音書(五章三十八、三十九節)
あなた方も聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
美しい寛容の精神のキリスト教ではありますが、もっとも、世界史を振り返れば、キリスト教がイスラムに比べて、より平和的だったとは到底いえないわけでして……。
2001年の9月11日以降、イスラムのイメージはテロリズムと直結されることが多くなり、これに基づいた差別が世界中に起こっています。そして現在、中東の「ISIL」や、アフリカの「ボコ・ハラム」の台頭により、悲惨なニュースや過激な言動ばかりがクローズアップされています。でも、大多数のイスラムの人々は、日々を安らかに楽しく生きようとしている普通の人たちです。一般に流布している言説に惑わされることなく、イスラムと共生し、虚心にみつめたいものです。
イスラムにもいろいろあって、政教分離のイスラム国家があったり、豚も食べる、お酒もOKのイスラム国家もある。なんとなく「中東」とか「砂漠」のイメージがあるイスラムですが、世界で最もイスラム教徒を抱える国はインドネシアだったりと、共通のイスラム部分はあるけれど、多種多様なイスラム世界が実は存在しているのです。
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