カテゴリー「映画・テレビ・舞台・アニメ」の22件の記事

等一個人咖啡 Café. Waiting. Love

こちらの映画Blu-rayも2021年12月に保存用として購入した作品です。日本未公開の映画なので、海外輸入のお取り寄せ品&当然ながら邦題なし、日本語の吹き替えも字幕なし(中文の字幕のみ)ではありますけれど、台湾を知る人なら誰でも楽しめるファンタジー&ノスタルジック青春ラブコメディー(?)な映画じゃないですかねー。

「等一個人咖啡」Blu-ray版

 

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大学生になったばかりの主人公の女子大生・李思螢(リー・スーイン)は、不思議なきっかけで「等一個人咖啡」というカフェでアルバイトをすることに。そこには無口だけど腕の立つ女性バリスタ・阿不思(アー・プゥスー)、いつも窓際でぼんやりと物思いに浸っている美人の女店主、そして、思螢の胸のときめきの相手、いつも同じ窓際の席に座り、毎回違う連れの女性の話を聞く常連客の青年・澤于(ゾユィ)がいた。
ある日、数々の奇妙な伝説を持つ大学の先輩・阿拓(アー・トゥ)が友人たちと「等一個人咖啡」を訪れる。実は店のバリスタ阿不思は、かつて阿拓のガールフレンドを奪った人でした。友人たちに嘲笑される阿拓の姿に、正義感の強い思螢は我慢できず、他人ながら阿拓の友人たちへ言い返すことに。
最初はどうにも阿拓を受け入れ難い思螢。でも阿拓は、思螢の正義感に深く感銘し、何かと思螢に関わり続ける。やがて思螢の日常は阿拓によってカラフルに色づき変わっていく…。

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等一個人咖啡


上記あらすじはBlu-rayパッケージから、私が辞書を引きつつ意訳して付け加えているところも多いので、下記にパッケージのオリジナル文を載せておきます。

大學新鮮人思螢(宋芸樺 飾),來到「等一個人」咖啡店打工,結識了咖啡沖調技術高超,任何客人點的特調咖啡都能做得到的超酷拉子阿不思(賴雅妍 飾)、每天都看似無所事事的神祕美麗老闆娘(周慧敏 飾),和她的暗戀對象:喜歡坐在固定座位,看似身邊女友不斷的澤于(張立昂 飾)。在大學裡擁有許多離奇傳說的學長阿拓(布魯斯 飾)和一群好友到「等一個人」喝咖啡,卻碰上搶走他前女友的阿不思,很有正義感的思螢看不慣阿拓被好友們嘲笑而大罵對方,而和阿拓結為好友。深深被思螢的正義感電到的阿拓,常常介紹他那些有趣的好朋友給思螢認識,思螢的生活也因為有阿拓而變得多彩多姿…。
等一個人咖啡


総じて「等一個人咖啡」に登場する人物は、個性が強いキャラクターばかりではありますが、その中でも「阿拓」というキャラクターに特別なものを感じます。なんつーか、主人公の思螢と同じく、感覚として存在が普通の人、「現在の人」みたいで。阿拓の(最初の)格好は奇抜だけど、ほかの登場人物は、それよりも伝説とかファンタジーに感じます。

この作品、ストーリーを構成する小故事(エピソード)の1つ1つが面白い上に、仕立て方が非常に上手で、冒頭から「ウン●」ネタという下品だけど(子どもの頃の)あるある話で大笑いしたり、あまりに切なくて涙も出たり。映画原作は人気作家の九把刀(ギデンズ・コー/ジョウバーダオ)。台湾の大ヒット映画「那些年,我們一起追的女孩(邦題:あの頃、君を追いかけた)」ほどの「切なさ」はないんだけれど、台湾の悪ノリ的ナンセンスな笑いは多かったかな。(切なさを笑いで和らげる的な?)

等一個人咖啡
每一個人,都在等一個人。等待一個,能看見妳與眾不同的,那一個人。

映画のキャッチコピーとして、「誰もがみんな、誰かを待っている。他の人とは違う自分を見てくれる人を待っている。」という言葉があります。映画タイトルと店名の「等一個人咖啡」とは、「一個人(ひとりの相手/誰かを)」を「等(待つ)」なんですね。主人公の思螢に向けて、この言葉はその青年・澤于のセリフでもあるわけで。

あらすじにある「いつも同じ窓際の席に座り、毎回違う連れの女性の話を聞く常連客の青年」である澤于というキャラクター、いつも同じ窓際の席(で同じ向き)に座り、常に相席の「聞き役」なのはそういうことだったのですねぇ…とか。

等一個人咖啡


ところでこの映画、いつも窓際でぼんやりと物思いに浸っている美人の女店主を演じたのは香港のビビアン・チョウだったことに驚きました。香港の中国返還年あたり、1990年代後半ですかね、私が最後に姿をお見かけしたのは。

以前このブログで紹介した台湾映画「我的少女時代」に登場した「アンディ・ラウ」と同じくらいの衝撃で胸がドキドキしましたよー。なんせ、私の20代の青春時代の海外スターですから。このあたりのキャスト起用、非常にツボでありました。(笑)

主人公の頭から湯気と共に実体化する「香腸」や「豆花」が出てくるあたりは、「リアル」とか「整合性」を重視しがちの日本人からすると「?」な表現でナンセンスに映るかもしれません。もっとも、この映画は現実と空想(というか非現実)が入り組む不思議な物語。私にはこれが、人が見つけるべき1つの小さな「幸せ」に見えましたね。

無口だけど腕の立つ女性バリスタ・阿不思のエンドロールにも、最後まで大笑いさせていただきましたー。(本当に悪ノリが過ぎるというw)

 

■等一個人咖啡
公開: 2014年8月15日(台湾)
※日本未公開
© 2014 AmazingFilmStudio 、Star Ritz International  Entertainment Co., Ltd. 、Fist of Fear Ltd 、Edko Films Ltd.

※なんと、映画でカフェとして使われたロケ地が、そのままコンセプトカフェとして営業しているらしいです。新店から近いので、そのうち足を運んでみようかなー。
■等一個人咖啡(景美本店) | 台湾グルメ・レストラン-台北ナビ
(台北MRT松山新店線「七張」からバスに乗って東へ10分。景美女中、景美渓の歩道そば)

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陽だまりの彼女

2021年12月、自分の数少ない映画作品の保存用として、この映画のBlu-ray版を購入しました。物語にかかわるザ・ビーチ・ボーイズの名曲「素敵じゃないか」がテーマソングとして本編を彩り、タイトルにある「陽だまり」という、あたたかい光りに溢れるイメージと映像が強く印象に残る作品です。

陽だまりの彼女Blu-ray版

さて、私がこの映画を最初に鑑賞したのは2014年2月の香港から帰国する飛行機の中でした。以下に、機内誌に書かれていたストーリーをそのまま紹介します。

陽だまりの彼女(機内誌)
新人営業マンの浩介は、取引先で幼なじみの真緒と10年ぶりに再会。中学時代はいじめられっ子だった真緒は魅力的な女性になっていた。やがてふたりは恋に落ち、浩介は結婚を意識するが、彼女は大きな秘密を抱えていた。

“女子が男子に読んでほしい恋愛小説No.1”の実写化というキャッチコピーではありますが、この作品はどちらかというと男性目線の作品かなと思います。あとから原作の小説も買って読みましたけど、やはり男性視線(浩介の視点)の作品ですね。
ただ、原作の小説と比べ、実写化された映画作品のほうは、女性側(真緒)の視点と想いが追加されています。

陽だまりの彼女

映画の中では、秘密を抱えた真緒(上野樹里)が時折に見せる表情や仕草が、男性が気づかない・なかなか気づいてくれない女心を表現しているように見えます。でも、真緒は大きな秘密を抱えてはいますけど、これを浩介にも知って欲しいとか、これを浩介に伝えたいわけではなく、真緒としては最後まで「陽だまり」のような2人の居心地のいい関係と空間を大切にしたかったのだと思うんですよね。

陽だまりの彼女

真緒(上野樹里/葵わかな)の役柄がやたらと男目線としてカワイイのはもちろんのこと、それよか、私としては主人公の浩介(松本潤/北村匠海)の役柄に対して、「あ~、そういの、わかるわ~、それ」的な、心理描写や演技・演出に、かつての男子としては非常に共感できるものがありました。

たぶん、こういう感覚とか想いって、男子独特なものじゃないですかね。思春期の心のささくれ具合といい、その想いを引っ張り続けているところとか。 むしろ私としては、真緒(上野樹里)よりも、浩介(松本潤)のほうが、よりカワイイと感じて映画を観てましたー。物語のヒロイン、実は松本潤のほうなんじゃないかと(笑)。

この映画作品における最大のファンタジーは、今どきこんなにもシンプルに、互いを愛しむカップルっていないよね、という部分なのではないでしょうか。ザ・ビーチ・ボーイズの名曲「素敵じゃないか」がかかる2人のデートシーンは映像が美しく、観ていて心があたたかくなります。もうここだけをずっとリピートで映像を流したいくらい、お気に入りですかねー。(とにかく2人が、特に松本潤がカワイイw)

 

■陽だまりの彼女
公開:2013年10月12日
2013年製作/129分/G/日本
配給:アスミック・エース、東宝
陽だまりの彼女 - 映画・映像|東宝WEB SITE
©2013「陽だまりの彼女」製作委員会

 

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我的少女時代 Our Times

携帯電話やSNSを使えばすぐに誰かと連絡を取り合える今の時代。そういうツールがなかった学生時代を過ごした私としては、この台湾映画はとても懐かしく、日本人としても「昔、コレと似たこと、流行ってたよね」「あれ見たことある」「ああ、私もやったことあるなぁ」と思うようなものばかり。非常にノスタルジックな映画でありました。

我的少女時代

また、この映画は高校生の男女が思いを寄せ合う青春映画ではありますけれど、主人公のヒロインとその彼氏、ふたりの成長と変化の物語でもあります。そして、それをより引き立てるのが、月日が流れても変わらない香港四天王「アンディ・ラウ」という存在の普遍性。その対比も実に見事な映画だったように思います。

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「君は今の自分が好き?純粋で夢にひたむきだった自分が恋しい?あの頃の君は今も君の中に?大切だった人たちを覚えてる?」
恋も仕事も18歳の頃に夢想していた通りにうまくいかないOL・林真心(リン・チェンシン)は、疲れたある日、ラジオから流れるDJのメッセージを耳にする。

高校の卒業ノート(プロフィール帳)を開いた林真心は、ページに埋め尽くされた「アンディ・ラウ」のプロマイドと、自筆の「夢はアンディと結婚」の文字に苦笑いを浮かべるものの、自身のプロフィールにシールで隠された「喜歡の人(好きな人)」欄に涙が抑えきれない。いつしかラジオからは少女時代の当時から夢中だったアンディの歌が流れ、林真心は18歳の高校時代を回想する――。

我的少女時代

物語のメインは1990年代の台湾が舞台。ボサボサ髪の眼鏡姿、ダサいファッションでもお構いなしの「男子が興味を持たない平凡女子」の主人公・林真心が、学校一のイケメン男子に片思いしているところから話は始まります。

ある日、林真心は「幸運の手紙(不幸の手紙)」を受け取り、校舎裏で片思いの男子に因縁をつけて絡む学園の不良ボス・徐太宇(シュー・タイユゥ)を目撃。妙な復讐心に燃えてしまった彼女は、彼に「幸運の手紙」を送ることに。

その手紙を読んでいる最中、トラックに衝突された徐太宇は、その取り巻きたちにより手紙の送り主が林真心であることを突き止め、彼女に「友達になろうぜ」と迫ります。

徐太宇に「使い走り」として使われる林真心は、無理やり授業をサボらされてローラースケート場へ。そこで徐太宇たちと他校の不良グループとの喧嘩に巻き込まれ、その罰として生活指導の先生からプール掃除を命じられてしまいます。

そのプール掃除をしている最中、林真心は片思いの男子が学園のアイドル女子と密会している現場を目撃し、思わず水の中に身を隠します。ふたりは付き合っていると勘違いした主人公は失意の中、そのままプールに沈んでしまいます。

その時、「あのバカのために死ぬつもりか?」と、水の中から林真心を引き上げたのは、あの徐太宇でした。実は彼も密かに学園のアイドル女子に片思い。そこで林真心と徐太宇は「失恋同盟」を結成し、ふたりを別れさせようと行動を起こします。そこから林真心と徐太宇の関係は「使い走り」ではなくなり、「友だち」として距離が縮まり始める――。

ここまでが映画の前半部分、およそ1/3くらいのあらすじです。主人公の林真心が徐太宇と出会い、彼に「友だち」として認められてからは、「男子が興味を持たない平凡女子」からどんどん変わっていきます。

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この映画では主要な登場人物の誰もが「変わりたい」と願っています。

冒頭の現代に生きるOLの主人公は、恋も仕事も描いていたようにならなくて、「もし18歳の私が、今の私を見たら…」と嘆き、そこから回想する1990年代の記憶では、ボサボサ髪の眼鏡姿で冴えなかった外見が(当時台湾でも人気だった内田有紀ばりに)イメチェンで大変身。相手となる男子たちについても、昔のような関係や本来の自分に戻りたいなど、姿と格好、そして生き方を模索して揺れ動きます。

また、劇中では「我們說沒事 就是有事(“大丈夫”は“大丈夫じゃない”)」や、「沒關係 就是有關係(“何でもない”と言えば“大あり”)」など、本当と偽りの気持ちの間に揺れ動く、心情を表す言葉や行動表現の「裏返し」も多く語られます。

青春映画とはいえ、これを観客として見せられるのは、正直に言って「むずがゆい」のではありますが、自分を出せない、自分らしさをなかなか見つけられない登場人物たちの姿には「もどかしさ」も半分くらい。大人たちから価値観を押し付けられ、決めつけられたりする姿には登場人物たち同様、見る側としてもストレス溜まります。

だけど結局、価値を決める、自分が「何者か」を決めるのは自分自身である、「自分らしさ」は自分で決める――そういった思いを主人公のヒロインが全校生徒の前で爆発させる場面は、これまでの「変わりたい」という伏線を一気に回収するような爽快さ。ここからは「青春」が一気に輝き出します。

我的少女時代

さて、この映画の後半はネタバレになるから書けないというよりも、何度見ても、思い出しても、わんわん泣いてしまってまとめられない、というのが正直なところ(苦笑)。飛行機の中では絶対に観てはいけない映画、また1つ増えてしまいました…。

物語は高校時代の回想が終わり、現代の主人公が昔の輝きを取り戻したところで、あのまさかの香港の大スターが目の前に登場。この先が薄々と読めるベタな展開なのではありますが、どこかそれを期待して最後まで見続けてしまいます。

「我的少女時代」は、見る者の年齢を問わず、1990年代を知らなくても、誰もが懐かしさを感じることができる映画作品です。吹き替えなし・字幕なしでも伝わります。

若いうちの普段からSNSを使っている人たちにはちょっと想像しにくいかもだけど、昔は当たり前だった「時間をかけて待つ」という感覚は、実に味わい深いものがあります。レスポンスは遅いけど、相手や返事、言葉を待つ時間には、いろんな感情が湧いてくるものですからね。

「好久不見(久しぶり)」というセリフで終わるところも非常によかったです。


■私的少女時代 OurTimes
公開: 2015年8月13日(台湾)
我的少女時代Our Times公式facebookページ
©2015 Hualien Media Intl. Co., Ltd 、Spring Thunder Entertainment、Huace Pictures, Co., Ltd.、Focus Film Limited

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※台湾公開時の正式予告動画がYouTubeにあったので置いときます。
よかったらどうぞ!(ワイ、この予告編だけで涙が…)[2018/11/14追記]

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機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ

この作品は、子どものまま大人に成長するしかなかった主人公たちの「青春群像劇」とでも言い表せばよいのでしょうか。鉄血のオルフェンズは、まるで歴史で習った文明や王朝などの「勃興から滅亡」までの物語そのものでありました。

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ

「鉄血のオルフェンズ」は、国連のような治安維持組織の監視のもと、各経済圏によって分割統治された世界が舞台です。長年に渡る世界平和の中で、国連のような組織は当初の理念を失って腐敗。その余波は一般民衆に対しても差別や貧困というかたちで蔓延し、生活難から過酷な労働に就くストリートチルドレンや、人身売買される孤児たち(Orphans)を生み出し続けているところから物語が始まります。

少年兵やPMC(民間軍事会社)という、現実問題とリンクした題材を積極的に使って描いたことは、まず評価してよい点だと思います。また主人公たちは、「戦いに巻き込まれ、嫌々ながら行動する」ではなく、「巻き込まれたけど、生きるために行動する」ことが大原則。なんつーか、このガンダム作品は、「功利主義」と「実利主義」なんですよね。この2つは似ているけれど、自分の身の回りの「世界の範囲」が違うといいますか…。

物語の後半になると、「功利主義」と「実利主義」の違いが鮮明になってきます。言い換えれば「最大多数の最大幸福」を掲げる大きな枠組みの世界と、「自分たちの最大幸福」を追求する主人公たちの小さな世界の違いです。

物語の最後、主人公たちは求めてきた理想と未来を実現します。しかし、そこには主人公たちの居場所はありませんでした。同じ幸福を願いながらも、目的のためなら手段を選ばず、その上で必要な手順を踏む大人たちに滅ぼされてしまいます。世の中を変える契機とするために、主人公たちは生贄にされてしまったのです。

「おとぎ話」の∀(ターン・エー)ガンダム00(ダブルオー)は「世界の変革」を描いていたとしますと、鉄血のオルフェンズという作品は、そういった夢や理想をぶん投げた、非常に「泥臭い」戦いを描いています。

ファースト・ガンダムがアメリカのSF作家ロバート・A・ハインラインによる、宇宙戦争をテーマとしたSF小説に影響されているところは有名ですが、鉄血のオルフェンズはそれと同等、あるいはそれ以上に「宇宙の戦士」に近いかもしれません。

あの終わり方に賛否両論ある「鉄血のオルフェンズ」ですが、私自身は「大人たち」が、今を懸命に生きるだけの「子どもたち」を含めた未来を、生きて作らねばならないラストのイメージは悪くないかな、とは思いました。

ただし、悪魔(ガンダム)の首を剣で突き刺し、それを高々と掲げて勝利宣言する姿と、それに湧く「大義ある大人たち」の描写には、絵画のような美しさある象徴的な絵ではあるものの、エライ嫌悪感を抱きましたけどね。


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これは見たい&応援したい映画作品「この世界の片隅に」

マンガ原作を読んでいないけど、この劇場アニメ作品はちょっと見てみたいよね~とか思ったわけは、先月たまたま出張で、この物語の舞台である広島県の呉市を訪れたから。

「この世界の片隅に」

この「この世界の片隅に」は、こうの史代さんによる同名マンガ作品を原作とする劇場アニメで、太平洋戦争中の呉市を舞台に、そこで暮らすある家族の姿を描いた作品です。原作は2009年の「第13回文化庁メディア芸術祭」でマンガ部門の優秀賞にも選ばれていたことも、あとになって知りました。

公式サイトも3/8にオープンしたばかりで、しかも、劇場アニメ公開実現に向けてクラウドファンディングで支援者を募るという。目標額は2000万円、支援は2000円からOKとなっています。ちょっとコレは参加してもいいかな~。(←支援に参加しますたw)

呉の港(船着き場から)

実際に広島の呉を訪ね、その景色が上下の写真のように思い浮かぶせいでしょうか、この公式サイトの物語のあらすじを読むだけで、もう涙腺がゆるんでしまいます。
だって呉は、原爆が落とされた広島までの距離は20キロメートルくらいですからね。市内にある大和ミュージアムに展示されていた「呉と原爆」の写真が、私には静かにズシンと堪えましたよ。「ああ、そうか、呉からは、ここからは、広島のキノコ雲、見えていたんだよねぇ…」と。

呉の港(造船所から)

今までのこういった作品って、「忘れてはいけない・風化させてはいけない」とかいった、変に異様な説教臭さや教訓だったりの、いわゆる「ウエメセ」で、作者の戦争観や批判、あるいは感情のゴリ押しだったり、戦争の悲惨さを伝えるために恐怖を煽ったりと、「平和の教育や啓蒙と言いつつ、それ、洗脳じゃね?」みたいな語りも多かったような気がします。

実際、ほとんどの人たちにとっての日常の中にあった戦争というのは、それこそNHK朝ドラ「ごちそうさん」などで描写された「軍国おばさん」のような熱狂者よりも、「この世界の片隅に」の主人公のようなものだったんじゃないかなー、戦争を他人事じゃないと考えさせる作品は、わかりやすい恐怖や悲惨さで表すものではなく、本来こういうものなんじゃないかなーと、この「この世界の片隅に」という作品は、そう期待させるものを感じます。昭和30年代の山口県防府市に暮らす少女・新子の物語を描いた「マイマイ新子と千年の魔法」の監督・脚本ということもポイントが高いよね(笑)。

「この世界の片隅に」ポスター(大和ミュージアム)

たまたま呉を訪れて、閉館時間の近い大和ミュージアムで見かけたポスターに目が止まっていなかったら、たぶん、この作品のクラウドファンディングや作品自体も知ることはなかったでしょう。呉でよい出会いをしたな~と思いました。(メモ代わりに撮った大和ミュージアムで見かけたポスターの写真が、ピンボケで残念だったけどw)

映画のみならず、ちょっとこのマンガ、読んでみたい気持ちが高いっすね~。
(というわけで、マンガ原作の商品リンクを以下に貼っておきます♪)


【▼こちらの前/後編の2つは紙の書籍版のリンクです】



【▼こちらの3つはKindle版の電子書籍のリンクになります】



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009 RE:CYBORG

宮城県の石巻市に滞在中、ちょうど動画サイトGyaO!(ギャオ!)で無料公開していたものを視聴することができました。(この日の早朝は緊急地震速報と津波警報発令で、ちょっといろいろ大変ではありましたが~)

009 RE:CYBORG

――「彼の声」に従って人類をやり直さなければならない――2013年、世界の超高層ビルを次々と狙う同時多発テロが発生。その「姿なき敵」と戦うため、再結集するゼロゼロナンバーのサイボーグ戦士たち。事件真相の鍵となる「天使の化石」と「謎の少女」、そして「彼の声」とは一体何かのか――。

サイボーグ009(ゼロゼロナイン)は、石ノ森章太郎のマンガが原作。筆者は昭和と平成のカラーアニメーション作品と劇場版の超銀河伝説くらいしか見ておらず、マンガ原作は全然知らないのだけれど、これらシリーズ作品に共通するテーマは、おそらく「正義」と「悪」で、これを哲学的に問いかけるのが「サイボーグ009」なのかなーと。あと、私的には結構「反戦色」が濃いイメージの作品ではありますね。

009 RE:CYBORGは、これを現代版にして再構築したサイボーグ009の劇場版作品で、9.11アメリカ同時多発テロ以降の世界が舞台です。軍産複合体の「死の商人」よりも根源的な悪との対峙が描かれています。この悪とは、現代社会に巣くう退廃や、終末論思想といった、なんとなく「そういう方向」とでも言い表せばよいでしょうか? 3.11東日本大震災の後だから、これは余計に感じるところかも?ではありますが。

サイボーグ009シリーズ作品に共通するモチーフに「正義」と「悪」のほかに、「神」と呼ばれるものの存在もあると思うのだけど、これは聖書の世界などに出てくる(教条的で単純な)善と悪の「神」ではなく、どちらかというと北欧神話に出てくるような「秩序と混乱」の対立で、絶対的な「神」ではないものとして描かれているように思います。
そういえば、サイボーグ009の昭和のテレビアニメ版では「オーディン」とか「宇宙樹(世界樹/ユグドラシル)」など北欧神話の中に出てくる名称や世界観の話もありました。 009 RE:CYBORGは、「滅びの予言」に他人を巻き込みがら物語が進む北欧神話により近い作品なのかもなぁ。

009 RE:CYBORGの「彼の声」は、北欧神話でいうところの、自身の道徳性の堕落に伴う、自己正当化と自己矛盾、さらには罪悪感に基づく自虐性によって、最終的にはラグナロク(最終戦争)を起こすようなもの。今までのサイボーグ009シリーズだと、ブラックゴーストのような(わかりやすい)悪意が敵だったのだけど、現代はなにか(わかりにくい)空気のような意識が敵みたいな。(これは私もヒシヒシ感じるところだったりしますけど)

でも、009 RE:CYBORGは物語の最後のほうから結末への展開は、北欧神話とは違っていて、主人公のサイボーグ戦士たちが、人として自らの運命を切り開く姿が描かれています。これはまぁ、サイボーグ009シリーズ作品のすべてに当てはまる「お約束事」ではありますが(笑)、これが原作者・石ノ森章太郎の答えなのでしょう。

009 RE:CYBORGのラストの世界で、物語前半で消えた007と008、最後に地球へ落ちた002が一緒の場所で、ギルモア博士らと言葉を交わしているところを見ると、三途の川は渡らずに済んだのかな?と期待しています。

サイボーグ009は「悪は人の心の中にあって、人がいる限り、これを滅ぼす事はできない」という結論が必ずあるけれど、これに「抗う」ことも決して捨てない作品です。

009 RE:CYBORGでは、「彼の声」に対してどう答えるか?という話でもあります。同じ「彼の声」を聞いた人たちが自爆テロなどを実行したことと、主人公らが実行したことは、実は手法として「自らを犠牲にする」というのは一緒なのだけど、解釈によってやったこと(効果)が違うというのは、まさに「ボタンのかけちがい」そのものだよなーと思いましたね。

現実の世界はそれがすべて、表裏一体であるということも、原作者やこの映画作品を作った人たちが辿りついた真理ということかもしれませんね。


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バップ (2013-05-22)

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版

このアニメーション作品は、論理的な面白さよりも、まず第一に「共感」を呼ぶところが受けているんじゃないだろうか?しかもそれは、この作品を見る人の中にある、物語で語られる似たようなエピソードと経験、その時の気持ちや感情が「シンクロする」からなのかなーと。

新世紀エヴァンゲリオン

物語の主人公は14歳の少年である碇シンジ。長い間離れて暮らしていた父親・碇ゲンドウに呼び出され、第3新東京市を訪れるところから物語は始まります。その時に「使徒」と呼ばれる謎の敵が現れて、父のゲンドウは息子のシンジに対し、汎用人型決戦兵器「エヴァンゲリオン」に乗って「使徒」と戦えと命令。父が自分を呼んだ理由にショックを受け、一度は拒否する主人公ですが、自分が拒否をすれば怪我を負った少女(綾波レイ)が代わりに乗って戦うことになる現実を突き付けられ、主人公のシンジはエヴァンゲリオンに乗ることを決心します――。

……とまぁ、このあらすじだけを読むと、一見よくあるロボット物のお話かと思うでしょうが、物語が進むにつれて、これはそんな生易しい(?)話じゃなくて、ものすごく「生々しい」ものを作品に投影しつつ、「本編」の軸となる肝心なストーリーを展開させているなーと。この作品が面白いと感じるかどうかは、見る人の中にある「生々しさ」の質と量が関係するかもしれません。

ここでいう「生々しさ」というものは何かという、例えば子どもの頃に「(親に言われて)強制的に勉強させられた」経験であり、その時に自分自身はどう思っていたのか、結局は嫌々ながら勉強したとか、勉強する理由もわからずにさせられた、納得して勉強した、勉強することを拒否した、その結果ほめられた、あるいは怒られたなど、誰にでもあるであろう経験と心の動き。「エヴァンゲリオン」を見た人が、共感するか否かの別れ道は、この部分なんじゃないかなと。たぶん、「前向き」度が高く、「後ろ向き」になった経験が少ない人には共感は得られにくい作品でしょうね(笑)。

物語は主人公の碇シンジほか、綾波レイとアスカの3人のエヴァンゲリオンの少年少女のパイロットに、大人の女性であるミサトを加えた4人の人物を中心に話が進みます。それぞれの心に大きな傷を抱え、人とのコミュニケーションが苦手な主人公たちにとって、「なぜ使徒と戦うのか?」、「なぜエヴァに乗るのか?」という問いは、「人類を守るため」とか「敵だから」とか、そんな大義や表面的な話でなく、むしろ自分たちそれぞれの内面の問題として語られて、演出自体も心理描写に重点を置いています。

物語が進むにつれ、その世界設定が「死海文書」を基にした旧約聖書・新約聖書の世界をなぞったカルト色が濃いものであることを、この作品を見ている私たちに明らかにされます。物語の前半では自閉的だった4人の登場人物が、それぞれにコミュニケーションの回路を開いて「絆」で繋がっていくプロセスが描かれますが、後半はある時期からそれが急速に破壊され、凄惨な状況に追い込まれます。そして物語は最終的に自閉的だった登場人物たちを「救済」の方向へ――。

この「救済」の方法が物語の中に出てくる「人類補完計画」で、「エヴァンゲリオン」の名の由来である「Evangel (福音)」というわけです。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

今年の秋(2012年11月)に公開される「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」は、2007年9月に公開された「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」と、2009年6月公開の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の続編です。それよりも昔にこの作品は、全26話のテレビアニメーション作品として1995年に、その2年後にはテレビアニメーション作品では描かれなかった第25話と26話のストーリーが劇場作品として公開されています。

あれ?これはただのシリーズ?それともリメイクされた映画作品?と疑問に思う方もいるでしょう。基本的にこれらの作品は、謎の敵「使徒」に対して、主人公たちが「エヴァ」に乗って、理由もわからずに戦う不条理な物語であることは変わりありません。が、新たな設定とストーリーで「リビルド(再構築)」したということもあって、新劇場版では、それ以前に語られた「エヴァ/シンジ」の物語とは随所に違いが見られます。別物であるともいえるし、続きともいえる。この物語の結末への過程が非常に楽しみです。大筋では変わらないものの、ラストは変わるかもしれませんね。


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∀(ターン・エー)ガンダム 地球光/月光蝶

上質な童話を読んでいるような感じの作品です。
何を信じればいいのか、どう生きればいいのか、どこへ向っていくべきなのか?このアニメーション作品は、そんな今の時代に「人が安心して生きていくために必要なことは何なのか?」を問いかけた物語のようにも思います。

∀ガンダム

「ガンダム」と名の付く作品は、たいていは人類が宇宙に進出するようになっても戦争を幾度となく繰り返す時代のお話ですが、この作品は、それよりもっとはるか未来のお話です。

舞台は、まるで19世紀の産業革命まっただ中の地球。人々は人類が昔、月に行った、ということを知らず、ましてや、月に移り住んだ人たちがいる、という事実が完全に忘れさられてしまった世界で物語は始まります。そこへ地球帰還を求めて月の軍隊が地球に降りてくる……というのが物語の基本設定。

物語の前半は月の軍隊の侵攻により“黒歴史”の遺物「∀ガンダム」が目覚め、月に行くための宇宙船を発掘、そして禁忌の土地で発見された核ミサイルの爆発による「夜明け」を主人公たちは体験します。そして物語後半は、発掘された宇宙船で月へ行き、そこに封じられていた“黒歴史”と∀ガンダムの秘密が明らかになり、ラストは地球と月に平和が戻って静かに終わります。

このガンダム作品は、1999年から2000年の全50話でテレビ放映され、2002年に物語前半の「地球光」、後半の「月光蝶」が劇場同時公開されました。10年たった今、あらためて見てみると、これは非常によくできた物語であると感心すると同時に、一体どう説明したらコレが伝わるのか、非常に悩むガンダム作品です。というのは、「ガンダム」という冠(ブランド・イメージ)がこの作品の欠点かな?とも思えたから。

2001年に起こった9.11アメリカ同時多発テロ以後の、今年発生した3.11の我が国で起こった震災と原発事故の後で視聴したせいもあるでしょうが、このガンダム作品は、普通の人々の生活に必要な、本来の「普通のこと」とは何なのか?をあらためて問いかける物語という印象を強く持ちました。

それは、人と物の関係であったり、文明や科学が発達することは必要なのか、便利になること、「前に進む」ことが当たり前とされているけれど、本当にそうでなければいけないのか?時には「後ろに進む」とか「足を止める」ことも良いのでは?という、あらたな未来像を提案する作品でもあったからです。

ちなみに、このガンダム作品の監督は富野由悠季。
この人の歴史(?)を考えると、ひょっとしたら、「人はそんなに(短い期間・歳月では)変われない」とか、たぶん、「人なんて(結局は)こんなもの」という、ある種の悟り(?)が反映されたから、あの傑出した「余韻あるラスト」へとつながったのかなーと。
∀ガンダムは、寓話としても秀逸な作品ですね。


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銀河鉄道999

全駅停車!「銀河鉄道999」ぜんぶみせます

NHK-BS2で放送された『全駅停車!「銀河鉄道999」ぜんぶみせます』を5夜連続で視聴。大人になってあらためて見て、こんなにスゴイ作品だったのかと、大きな衝撃を受けました。いや~、ホントに名作です。歳をとったせいなのか、懐かしさも加味されて、動く999の映像を見ただけで涙が浮かんでしまいます(笑)。物語のラストは、えんえん泣かせていただきました~。(泣き過ぎだなぁ>オレ)

物語は西暦2221年の地球から始まります。
地球をはじめ、宇宙の裕福な人々は、「機械の体」に魂を移し替えて機械化人間となり、永遠の命を謳歌していた。しかし、貧しい人々は、機械の体を手に入れることができず、機械化人間たちから馬鹿にされ、差別、迫害を受けていた。

物語の主人公、星野鉄郎(10歳)は母とふたり暮らし。貧しさのため、いまだ「生身の体」のままだった。誰もがタダで機械の体を手に入れることができる星があり、銀河超特急999号にのれば、そこへ行けるという希望を持って、鉄郎と母はふたりで999号が発着するメガロポリスを目指す。だがその途中で鉄郎の母は、生身の人間を狩ることを趣味とする機械伯爵に撃たれて殺されてしまう。取り残されてしまった10歳の鉄郎。たったひとり雪原に倒れているところを、謎の美女メーテルに助けられ、一緒に旅をすることを条件に、鉄郎はメーテルから999号に乗るためのパス(無期限の定期券)を与えられる。無限に広がる宇宙の彼方へ、機械の体をタダでくれる希望の星を目指して、鉄郎の果てしない旅が始まる──。

テレビアニメ版の銀河鉄道999をリアルタイムで視聴していた世代は、おそらく私と同じ30代後半以上だと思います。30年前の古いアニメ作品ですけど、テーマが普遍的なので現代でも見る価値は十分ある非常に秀逸な作品です。

個人的には第5話「迷いの星の影(シャドウ)」でのメーテルのセリフは、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けました。「鉄郎、女というものは一番美しいときの自分を心の支えとして生きていくものなの。シャドウの気持ちもわかってあげて」テレビアニメなのに、セリフが深くて切なくてスゴすぎます>銀河鉄道999
そして、この言葉の意味がわかる歳になったんだなぁ……。(←なんかしみじみ)

ちなみに、劇場版の銀河鉄道999より、テレビアニメ版の方がメーテルのセリフのスゴさは味わえます。前述したシャドウの話以外にも、たとえば第79~81話「時間城の海賊」で「宇宙の歴史に魔女と書き残されてもいい。悪魔と書き残され未来の人々に罵られても構わない。私は鉄郎のためにあなたを殺す!」など、テレビアニメ版は話数が多い分だけ名セリフも多いですね。

あらためてNHK-BS2のこの番組で見て、「銀河鉄道999」は、不思議と“文学”を感じる物語だなーと。それは、999号が「C62」というSL(蒸気機関車)の姿であることと、「9」という数字が3つ並んだネーミング、そして主人公の鉄郎と一緒に旅をするメーテルという「女」の存在に。終わることのない「永遠」を感じます。

いやー、若い人にもぜひ観ていただきたいアニメ作品ですね。
大人になって、久しぶりに銀河鉄道999を見て、そんなことを思いました。


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THE COVE [ザ・コーヴ]

那須塩原でザ・コーヴ

和歌山県太地町のイルカ漁を批判するアメリカの映画「ザ・コーヴ」を那須塩原で観た。この映画をめぐって日本では、「反日映画だ」などとして上映中止を求める抗議活動が全国各地に起こり、実際に上映を取りやめる映画館もあった。

追い込み漁によって映画タイトルである“コーヴ(入り江)”に閉じ込められるイルカの群れ。そのうちの何匹かは世界中の水族館などに売られ、残りのイルカは槍で突き刺され、入り江が真っ赤に染まる──それを暴くための映画だった。

正直な感想として、これは「うまくない映画だな…」と思った。なぜなら結論ありきの映画だからだ。特にそれを感じさせるのが、食用で売られているイルカ肉に含まれる水銀値が高いことを訴える場面。理由が後付けである感が否めない。
これを観た日本人のほとんどは、映画制作側の全面的な支持者には成りえないだろうし、はじめからイルカやクジラ漁に反対する人しか共感できない。

この映画を観て、いくつか収穫もあった。
まず、少なくとも映画制作側にとってイルカは「魚ではない」こと。彼らにとっては「イルカ漁」ではなく「イルカ猟」なのだ。それから彼らは、私たちと同じ「人間」のような感覚でイルカを捉えているのだと思う。彼らとそれを支持する人たちの中には「日本のイルカ猟は非人道的だ」とまで言っているかもしれない。(←ひょっとしたら映画の中で言っていたかも?)

それから、この映画が最も訴えたいことは「イルカを食べることがいけない」ということではない。本当は「日本は野生動物の滅亡や虐待、虐殺に無関心な国である」ということなのだろうと思う。「訴えたい」というよりは、「レッテルを貼りたい」に近い感情。だけどそれが非常に伝わりにくい映画作品になっている。日本のイルカ漁やクジラ漁に対する説明(認識)が不足している。一方的な視点で描かれており、違和感を覚える人はきっと少なくはないだろう。

1960年代のアメリカの人気テレビ番組「わんぱくフリッパー」で調教師兼俳優として活躍したリック・オバリー氏の「イルカへの愛情」はひしひし伝わるし、イルカと一緒に波乗りして、サメに襲われるところをイルカに助けられたサーファーや、イルカやクジラと一緒に泳いだフリーダイバーらの体験に基づく「殺さないで」は理解できるし、それは許せるなと思った。それこそ、リック・オバリー氏のイルカへの愛情と情熱的な献身(イルカ解放活動)のドラマだったら感動はしたかもしれない。彼は純粋にイルカを愛している。それは映画の中でよくわかった。

私が思う最大の問題は、映画の中にも出演者として登場する監督のルイ・シホヨス氏をはじめとする映画制作側(OPS)に愛が感じられないことだった。これは映画編集の問題かもしれない。シホヨス監督が入り江の秘密を暴くために、選り抜きのスペシャリストを招集してチームを作り、盗撮ミッションを遂行する過程を少なくとも映画の中に3分の1強は入れたことがその原因のような気がする。ただ「暴きたかっただけ」、「力を示したかっただけ」のような印象を持ってしまったことが残念だ。

映画を観た帰り道、ずっと車の中で考えたことがある。
それは映画の中で出てくる「日本の文化」という言葉。リック・オバリー氏のいう「(日本人なのに)誰も知らないイルカ漁を日本の文化といえるのだろうか?」という言葉と、漁師のいう「(昔からやっている)イルカ漁は日本の文化」という言葉。
私の認識では、あくまでも「ローカルな文化」なので、これを「日本の(共通の)文化」というニュアンス(?)で、ひとくくりにされてしまうことに疑問符が。私的に、なんだかしっくりこないのでありました。
(※ケンミンショー的なご当地グルメとか風習とそれは同じで)


※別の見方・考え方として、とても参考になる感想がありました。なるほど…と思いましたので、こちらも参照されることをおすすめいたします。

■The Coveの感想:これはやばい
http://katukawa.com/?p=3667


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