今年は「仏教」と「平和主義/平和構築」に関わるの本や資料を読むことが多い私です。これは特にテーマを決めてこうなったわけじゃないのだけれど、気がついたら仏教の書籍は3冊、平和主義/平和構築関係の書籍は5冊に目を通しておりました。
このほか、図書館でコピーした資料やインターネットからダウンロードして入手したPDF資料などにもいろいろ目を通していますから、今年は考えるための情報や材料は多いですね。ただこれは、頭の中で整理できているか否かは別だけど(笑)。
(下の写真はその中の5冊をチョイスして撮ったもの)
ちなみに、先にここで平和主義/平和構築「関係」と書いたのは、さらに内訳として分類すると、平和主義の書籍1冊と平和構築(紛争解決)の書籍4冊。私の中でウェイトとしては、理念や哲学としての平和主義ではなく、現実的かつ具体的な紛争解決と紛争回避のための平和構築論に大きくシフトしている昨今です。
* * * * *
そんな中、先日の2014年7月1日に日本政府が集団的自衛権の行使(保持)を閣議決定しました。これはあくまで、わが国でも集団的自衛権を使えるようにする、という方向を定めただけのことですから、まだ(法律としては)この手段は使えない・認められていない話です。(なので、これから集団的自衛権が使えるようにするための法改正案を作り、これを基に国会で議論・審議される運びになります)
これについては、ぶっちゃけた話、私はどうでもいいと言いますか、集団的自衛権を持つこと、いつでも使えるようにすることは、別にいいんじゃない? 別に構わないけどさ、という立場です、今のところは。(そもそも論として、何を今さら…という気もしますけど)
ただ、かつてと同じように「自衛隊」を生み出した憲法の解釈変更だけですと、(そもそもの話、自衛隊が今存在しているのは、昔の憲法解釈変更による結果。そして今日に至るですし、)さらに憲法を歪めることになるんじゃないの? それだとますます憲法9条が存在する意味はないから、憲法を部分改正するか、それこそ作り直すくらいのことをやらなければ筋が通らない・整合性が取れないのでは?と思っています。
つーか、解釈変更などと、ここまで尊重されない憲法なんて、もうそれは憲法じゃねーよ(笑)。で、尊重されないのはなぜかと考えると、それは今の憲法が、当時のアメリカの、よかれと思っての見解と都合で作ったものであって、当時はそれでも良かったけれど、時代が移るに従って、アメリカの都合で解釈が変わる(アメリカから要求されることが変わる、その影響を受ける)憲法ってどうなのだろーか?と思うところがあるからなんだよね。
アメリカが日本国憲法(憲法9条)を作っておきながら、東西冷戦下で起こった朝鮮戦争、最近ではイラク、インド洋、ソマリアと、日本に支援(自衛隊派遣など)を要求し、集団的自衛権をすでに行使させている現状を見れば、なんだかな……と思うわけですよ。今回の閣議決定以前よりもっと昔に、有言無実化されているわけですから。(多くの日本国民が、それをわかっていない・気づいていないんだよねぇ……)
※日本人が、これを集団的自衛権の行使として捉えていないのは、「国連の決議に沿って」支援している=憲法で制限していることとは別と考えているからでしょうけど。(=国際社会が認めれば集団的自衛権はOKという解釈=すでにこれは実績あるってことじゃね?)
※報道が「わかりやすい」として例示する集団的自衛権の図にも、まやかしはあるのですよ。その最たる例が以下記事の図解。
■やさしい言葉で一緒に考える 自衛の措置(朝日新聞デジタル)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11221914.html
「個別的自衛権/集団的自衛権/集団安全保障」と分けて図解していますが、国連決議による「集団安全保障」も(国連加盟国による)集団的自衛権の行使ですから、構図・概念としては別ではないのでは?(旗振り役が国or国連かの違いだけで)
* * * * *
7月1日に日本政府が集団的自衛権の行使(保持)を閣議決定した後、カウンター行動として、いわゆる「護憲派」の人たちが、いろいろと声を上げています。
ここでは以下記事を引用いたしますが、
■「行使は絶対に許さない」=大江健三郎さんら訴え-東京
集団的自衛権行使をめぐる閣議決定を受け、ノーベル賞作家の大江健三郎さんらが1日夜、東京都内で記者会見し、「閣議決定は許しても実際の行使までは絶対に許さない。きょうはその誓いの日だ」と抗議の声を上げた。
会見したのは、大江さんら「戦争をさせない1000人委員会」のメンバー。冒頭に「集団的自衛権の行使は中立の立場を捨てることで、過去の戦争の多くが集団的自衛権を名目に正当化されてきた。憲法の理念を権力者から取り戻さないといけない」などとする声明を発表し、今後も反対運動を続ける意向を示した。
閣議決定に大江さんは「平和憲法と民主主義が自分の支えであり、打ちのめされたような気持ちだ」と表情を曇らせた。訴えは数十分におよび「安倍晋三首相は憲法への畏れを持たない珍しい人間だ。集団的自衛権がもとで国内で起きるテロなどへの想像力も欠けている」と批判した。
また、作家の落合恵子さんは「立憲主義の息の根が止められようとしている。権力者の戦争ゲームに付き合わず、国民は子供の笑顔を思い浮かべてほしい」とアピール。法政大の山口二郎教授は「さまざまな概念を持ちだし、国民を当惑させたままで閣議決定に踏み切った。不誠実極まりない」と訴えた。
これにもあまり頷けないんですよね。正直な気持ちを言えば、「護憲派もダメだなぁ。この人たちには任せられないなぁ……」というもの。特に納得できない部分は、「集団的自衛権がもとで国内で起きるテロなどへの想像力も欠けている」と批判したところ。すでに集団的自衛権を行使している日本が、一体何を言っているのですか?といった感じ。この人も、その認識がなかったのか……と残念に思います。
もうすでに日本は、テロ攻撃の対象国の1つじゃないの?(優先順位は低いと思うけど)、アルジェリアで起こった人質拘束事件で日本人犠牲者が出たことは考慮しないの?(日本人も米国人同様に見られているよ)
話がちょっと飛躍するけど、集団的自衛権を持つべきではない・行使すべきではないという考えは、例えば、日本と全く関係ないアフリカの地域の内戦で、罪もない一般市民が虐殺されるのを、日本としてはどう対峙するつもりなのだろうか?
「権力者の戦争ゲームに付き合わず、国民は子供の笑顔を思い浮かべてほしい」と言いながら、内政干渉になるからと、他国・他地域で子どもの笑顔がなくなることには介入しないの? 国連決議がないと正当性が示せないから、それまでは見殺しもやむなしってこと? それとも、国連決議(国連自体)による集団的自衛権の行使も認めないってこと?
今の世界情勢の中で、単純に物事を(狭く・限定的に)考え過ぎなんじゃないですかね? 憲法9条がノーベル平和賞の候補になったみたいだけど、そんな名誉や権威よりも、現実的にどう戦争を回避するか、戦争中であれば、どうやって収束させるのか、具体的な方法論をおろそかにしていませんかね? 理念や哲学も大事ですけれど。
集団的自衛権は「国家の安全保障」の話だけど、日本はそろそろ本気で「人間の安全保障」も議論した方がいいんじゃないですかね。これは同盟とか陣営なんていう「どちら側」という話じゃありませんし。両極端な二項対立だけで報じたり、議論すること・されることが、正直かなーり嫌になっている私です(苦笑)。
※集団的自衛権については、紛争解決の現場の声も併せて読んで知ってほしい、ということで、以下の2冊を私としてはおすすめしたいところです。
伊勢崎 賢治
河出書房新社
売り上げランキング: 10,418
最近のコメント