カテゴリー「書籍・雑誌・音楽」の17件の記事

『ベルサイユのばら』で読み解くフランス革命

「人は権利において、生まれながらにして自由かつ平等である」という言葉。これはフランス人権宣言で採択されたものです。「ベルサイユのばら」主人公のオスカルも「自由であるべきは心のみにあらず」と語ります。これらの言葉は多くの西洋の民主主義国家において模範的に取り入れられていることであると私は認識しています。

『ベルサイユのばら』で読み解くフランス革命

池田理代子による著書『ベルサイユのばら』で読み解くフランス革命。「ベルサイユのばら」は、史実とフィクションが入り混じった少女マンガの名作です。この本は原作の少女マンガを読んでいてもいなくても、「フランス」や「ベルばら」など、どこかに引っかかる部分がある人なら、誰でも楽しめる本ではないかと思います。

2015年1月にフランス、特にパリで起こった「私はシャルリ」と大勢の人が訴える出来事がありました。その中で、「私はシャルリと同じく、フランス革命精神を持っているのだ」という主張・言葉がニュースに流れ、ふと、「かつてのフランス革命や人権宣言での理念や理想が、はたして本当にこの訴えにはあるのか?」というような疑問を私は抱きました。端的に言ってしまえば、フランス革命の悪い部分が「私はシャルリ」に表れているよね、というのが私の率直な評価だったのです。

実は私がこの本を手に取った一番大きな要因は、自身の「フランス革命に対する評価を見直しておきたい」という欲求でした。「私はシャルリ」は1年以上前の出来事でしたが、ずっと今まで引っかかっていたのです。

さて、本の紹介話に戻りますが、その時代を生きた人の実像をありありと描く「ベルサイユのばら」は、人間の情緒や、当時のフランス社会の多面性など、学校教育における世界史の教科書を一見しただけでは読み取れない歴史の一面を、私たちに多く見せてくれる良書です。

そしてこの本、「『ベルサイユのばら』で読み解くフランス革命」は、その良書を通してのフランス革命に至るまでの歴史・出来事を、「ベルサイユのばら」の作者自身の語りにより、とても丁寧に解説しています。

原作者自身が解説書を出すというのは、よく考えると非常にめずらしいような気もしますけど、原作マンガの解説書というよりは、きちんと(原作「ベルサイユのばら」を通して)フランス革命に至るまでの解説書になっているあたりが絶妙なところです。

7月12日の今日はフランス革命記念日。その2日後の7月14日は絶対王政による専制政治の象徴であったバスティーユ監獄が革命に加わった市民たちに攻め落とされ、「ベルサイユのばら」では主人公のオスカルがここで倒れます。そしてバスティーユ監獄を落とした勢いをもって、冒頭のフランス人権宣言が採択。7月14日はフランス国民の祝日になっています。

フランス革命を経た今のフランス国家と市民、また、「ベルサイユのばら」主人公オスカルの命題である「自由・平等・友愛」とは何かを、国や地域は違えど、日本で暮らす現代の私たちが今一度考えさせられる、よい機会の本にもなっていると思います。

「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」という有名な言葉、マリーアントワネットが発言したと、中学だか高校の授業で先生から私は習った記憶がありますけれど、これについても本書では触れられています。(今の学校教育でも、そう習っているのかな?と、ちょっと気になってたり…) フランス革命は「市民による革命」であることには違いないのでしょうけれど、その構図、構成要件と動機は果たしてどうなのか。

フランス革命に対する評価が低い理由、このあたりが私にも大きいようです。


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サイボーグ009完結編conclusion GOD'S WAR

この本を買って読んでみようと思ったキッカケは、後述する石ノ森萬画館の特別企画展「サイボーグ009ワールド展―50年の軌跡―」で展示されていた、このマンガのラストシーンの生原稿が数ページ展示されていたから。これはあとでじっくり時間をかけて読んでみようと思ったのです。

サイボーグ009完結編conclusion GOD'S WAR

サイボーグ009完結編conclusion GOD'S WAR は、009たちサイボーグ戦士を作り出した世界規模の軍産複合体「ブラックゴースト」(正確にはブラックゴーストの理念を実行するための組織)を壊滅させた後の話です。

前作のマンガやアニメーションをご存知の方には説明は不要ですが、ブラックゴーストの本質は人々の欲望であり、闇の側面そのものですから、これは決して消えることがなく、何度でも集合して再編されてよみがえるものです。
本作完結編のconclusion GOD'S WAR では、この「闇の側面」をまず「神」として表し、これにサイボーグ戦士たちが立ち向かいます。つまり、人々の中にある「悪意」や「闇」と対決するわけです。

天変地異を起こす「神」の軍勢に大敗し、スキルアップしてどうにか軍勢を後退させたが、その後、神々からの攻撃は精神面からも行われ、かろうじてそれを跳ね返し、さらなるスキルアップ「Cyborg(改造人間)」から「PSI-borg(超能力を持った改造人間)」へと進化して「神」との最終決戦に突入する――。

009 RE:CYBORG を見たときにも思ったけど、サイボーグ009シリーズ作品のモチーフには「正義」と「悪」のほかに、本当に「神」という存在を、嫌応でも考えさせられるなーと。

「神」を考えるといっても「神学」ではなく、哲学的なあらゆる領域を網羅して、人の立場から「神」を考えて1つの答えを出したものがサイボーグ009という作品です。もっとも、この完結編を書き上げる前に石ノ森章太郎は他界してしまい、この構想を綴ったノートから原作者の息子がまず小説化、そしてマンガとしてビジュアル化したわけではありますけれど、これが原作者・石ノ森章太郎の表現(解釈と答え)なのでしょう。

善と悪、光と闇。人は普通、これらの両極の概念の狭間にあるもので、その中間のどこかで自分の立ち位置を探して定めようとします。主人公・島村ジョーのラストの叫びは、まさに「中庸」の結論です。石ノ森章太郎は、決して「天才向け」の結論を出さなかったところが素晴らしい。このように私が思うわけは、天才というのは神に等しく、両極端に(同時に)存在できる人だと思うからなのだけど。

石ノ森萬画館の入場券と50周年記念缶バッジ

さて、最初にお話した、この本を読むキッカケになった石ノ森萬画館の特別企画展「サイボーグ009ワールド展―50年の軌跡―」ですが、開催期間は2014年7月17日~9月28日までと、もう既に終わっております。各サイボーグ戦士たちを名セリフで紹介する最初の展示コーナーを見ただけで、今までの名場面がよみがえり、涙が出てきそうになるくらい、オレはサイボーグ009のファンだったのかwwwなどと、ちょっと自分自身に驚きました。また節目に、この企画展示をやってくれないかなー。

中年のオッサンが、子どもたちに混ざってクイズに答え、ちゃっかりと写真の50周年記念缶バッジ(非売品)もいただきました。これも含めてサイボーグ009は、よい思い出です(笑)。


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ハローキティの“ニーチェ”と、キキ&ララの「幸福論」

最近は心理学とか哲学書の超訳的な本が流行りなのでしょうか?
この2冊は読み手に負担を与えないポジティブなワードを抜き出した本です。落ち込んだりして元気になりたいときに読むには最高の本じゃないでしょうか(笑)。
サンリオキャラクターを用いた絵本であることもポイントが高いですね。非常に親しみやすいです。

ハローキティの“ニーチェ”と、キキ&ララの「幸福論」

ハローキティはドイツの古典文献学者でもある哲学者ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」の超訳本、キキ&ララの方はフランスの思想家・哲学者アランの「幸福論」の超訳本です。教訓集と言ってもいいかも(笑)。

原書や直訳等の翻訳本に触れた機会がある人でしたら、ちょっとこの訳(解釈)はどーなのよ?という部分などあったりしますけど、まぁ、わかりやすさ・読みやすさを優先し、とにかく「(著者は)何を言わんとしているのか」を伝え、これを読む人の生きる糧とか肥やしにしてもらいましょう的な目的は達成できている良い本じゃないかなーと思いました。

この本は、人生を前向きに生きるための言葉に溢れているので、贈り物にも最適です。ハローキティやキキ&ララがやさしく語りかけるような文章であるところもいいですね。

まぁ、これらの本を読んで興味を持ち、原書に当たることもいいでしょう。とはいえ、もとの本は結構ヘビーな内容(?)ですし、特にニーチェの場合は、「この本はナチス支持、肯定の内容だ!」と評価・批判された時代もありました。これらが書物として発表された時代背景や歴史を含め、深く考えることが好きな人はともかく、ただ日々を明るく前向きに生きたい人は、ハローキティとキキ&ララの超訳本で留めておくことを私は強くおすすめいたします(笑)。



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早野龍五・糸井重里「知ろうとすること。」

実はこの本を読むまでは、乳幼児専用の“ベビースキャン”について、これは「科学的に考えたら不要な機器では?」と、ちょっと疑問というか、懐疑的に捉えておりました。私がそう考えた理由・理屈は、この本の中にも書いてある通りで、(これは合理的ではないものなのに)それでもなぜ?と引っかかっていたのです。

科学的に考えれば検出されない。それはわかっている。でも、検出されませんでした、という結果が欲しい――相手を納得させる、安心させるためのプロセスには、コストの出し惜しみはイカンというか、なじまないよなーと再認識させられた一冊でした。
冒頭の「言っておきたいこと」に出てくる例え話にもつながりますね(笑)。

知ろうとすること。

本書は対談形式で非常に読みやすく、1時間くらいで読み終えてしまう内容のものです。読み進めていますと、私自身の当時のことをいろいろ思い出し、ああ、その頃はそうだったねぇ……(しみじみ)などと、不思議と懐かしい気分にもさせられました。というのは、私自身、セシウムが検出された過去もあるから(笑)。ちなみに、この本にも書かれている通り、3ヵ月後の検査で未検出、その後もずっと未検出が続いております。

6章「高校生をCERNへ」の話は、福島県のニュース番組で知り、「そんなこともあったみたい」くらいの情報しか持っていませんでした。
今まで「ああ、そんなこともあったよね~」と懐かしみながらこの本を最初から読み進め、最後にこの希望ある話のところ、「彼ら、遣唐使みたいですね」で堪え切れず泣いてしまいました。きっとこの感覚は、福島県から遠い人には理解されないものかもしれませんけれど(笑)。

この本は、「~べき」というような論調ではなく、普通の口調で語っているところがよいですね。それから、本書の6章最後に早野氏が「科学的なリテラシーというのは、教わって得られるものじゃなくて、自分で鍛えて身につけて行くもの」と語っているところは、私もその通りだなーと思いました。

ただ、この本の内容で1つ懸念するところは、最初に述べた“ベビースキャン”について、プロセス上は必要な機器(コスト)ではあるのだけれど、これ以上は増えないことを祈るばかり。安心するためのプロセス上は必要な機器ではあるけれど、(これが福島県では無料の検査だとしても)その維持コストは誰が負担させられているのだろうか? そこは今後、見極めてほしいポイントだと思いました。
(この本を読んで、“ベビースキャン”への理解は進んだけれど、これについては、まだいろいろと複雑な思いが残っています…)


知ろうとすること。 (新潮文庫)
早野 龍五 糸井 重里
新潮社 (2014-09-27)

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小川仁志「自由の国 平等の国」

この小説に出てくる「自由の国」と「平等の国」の対比は、かつて視聴したOVAの「銀河英雄伝説」を思い出します。比較対照するテーマは違いますけれど、それをお子様版にした感じで、とてもわかりやすく著者の思考を小説にまとめた本ですね。

自由の国 平等の国

ここでは「著者の思考」と書きましたけど、これはなにも、著者にしか出来ないような思考というわけではありません。こういうことは結構みなさん、普通に考えたことがあるんじゃないでしょうか?

物語のあらすじは、こちらの特設サイトをご覧いただくとして、大筋の話としては誰でも思い付くような構造の物語で普遍的。ゆえにシンプルなのではありますが、これに余計なものを肉付けせず、本当に素のそのままで、よくぞここまで書き抜いた作品だなーと感心しています。学校教育の教科書とか読書感想文には打ってつけの小説です。

物語は「自由の国」の主人公の少女から動き出しますが、これはもう1人の主人公である「平等の国」に属している少女からは起こらない心の動き・アクションだよね。極端な「自由」と「平等」を掲げる両国の対比を、今まで具体的に考えたことがない人にとっては、この本は、いろいろな発見があって楽しいんじゃないかと思います。「自由の国」と「平等の国」それぞれの発想だと、突き詰めるとそうだよね~という感じで(笑)。

「自由の国 平等の国」という本は、物事を深く考えられる子ども・お子さんに育てたいと願う大人の方にはおすすめの一冊です。というのは、最近の世界情勢に通じるテーマでもあるからなんですよね。中東イラク・シリアのイスラム教スンニ派の過激派組織(いわゆるイスラム国)の登場や、香港で発生した学生による民主派デモ(傘革命)なども、この本に描かれている「理想の国」のあり方を追求する動きと同じといえるでしょう。

ただ、この小説の中で私がひとつ気がかりなことは、その「理想の国」の追求の物語に「カクメイ(革命)」という単語が出てくることです。今の日本で起こっている様々な(マスコミが煽る)二項対立のことを想像すると、この本に描かれる「カクメイ」になりそうもない絶望を感じます。例えば、今のままの「反原発」や「9条を守れ」的なノリの運動には、この本の「カクメイ」は望めないなーと思うわけです。

「自由の国 平等の国」の著者は「革命を実現しようじゃないか」とメッセージを出していますけど、これはあくまで「創造が目的の革命ならばよい」という話。破壊したいだけの革命は、御免被りたいと私も思います。

というわけで大人の方には、本編の小説をお読みになったあとの、著者による「解説」部分の方が面白いと感じるかも?とも思った本でしたね。


自由の国 平等の国
自由の国 平等の国
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小川仁志
ロゼッタストーン

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「基準値のからくり」と「誤解だらけの電力問題」

今月購入した本が、自分としてはなかなかのヒットだったので、ちょっとご紹介しておきます。特に読書好きってわけじゃないのだけれど、今年は例年になく読書年ですな(笑)。

基準値のからくり (ブルーバックス)
村上 道夫 永井 孝志 小野 恭子 岸本 充生
講談社

仕事柄、リスクというものは「(ある程度)許容する」ことが意識としてインプットされている私としては、その目安となる基準値がどのようにして決められたのか?ということには興味津々です。

書籍のタイトルが「基準値のからくり」となっているので、一見すると、ちょっと怪しい暴露本とか都市伝説(?)みたいな、普段は決して手に取らない(私自身の基準として)敬遠・警戒するタイプの本(というかタイトル)だけど、中身をパラパラめくってみると、意外とそうでもなかったので購入を決めました。

基準値というのは、(想定された)安全と役割を担保する目安です。リスクの話をすると、よく「有無」であったり「ゼロ」なのかどうか?ということをよく聞かれたりするのだけれど、白黒がはっきりするようなことはなく、ほとんどが濃淡あるグレーなんですよね。多くの基準値は、すべてのリスクがゼロになることを保証してはおりません。

調査や実験などの科学的データのほか、社会や経済の利益と便益性、対策の実現可能性、人の生活習慣や文化、価値観なども考慮して決定されるのが基準値です。その根拠を知ることは、世の中の意思決定(政治)の仕組みを知ることでもありますから、この本はなかなかの良書ではなかろうか?と思っております。(まだ読み終わってないけどw)


誤解だらけの電力問題
竹内 純子
ウェッジ

日本のエネルギー問題、特に電力を考える上では、この本はとても有力なのではなかろうか? 書いてあることは実にオーソドックスなだけに、この本の内容に反論することは非常に難しい。まさに王道。電力を真正面に捉えた1冊です。

こういった本の購入を考える場合、書評などを読んで、1つの参考にすることはあります。Amazonのレビューの中に、この本は「原発擁護論」などと書く人がおられますが、先の「基準値のからくり」のところで述べた、「リスク(あるいは安全)の有無」で思考して判断するタイプの人には、受け入れにくい内容の本かもしれない。この本は、そういう反論に対して明解に答えることはありませんが、黙して語らず、語ろうとしないところに、電力問題の本質があるのでは?と、私は途中まで読んでみて思いましたね。(この本もまだ読み終わっておりませぬw)

私は総じて再生可能エネルギーの技術は好きなのだけど、今の日本中で進む普及状態には好ましいといえる感情は持っておらず、またこのままの状態で進行してしまうと、安定的な電力の供給に支障が出るのでは?と危惧を抱く1人です。ドイツのように脱原発、再生可能エネルギー化を進めるが、「あれも嫌、これも嫌という甘えは許されない」と国民に覚悟を求めていない日本ですからね。

誤解だらけの電力問題という本は、エネルギーに関する神話、エネルギーに関する基本、電力システムの今後が語られています。中でもおもしろいのが「(補論の)電力システムと電力会社の体質論」です。

新聞などで「経済性と安全性と比べるな」という主張がよく展開され、ごもっとも、と思うところもあるけれど、実際には経済で命が失われていることもありますし、むしろ、そっちの方が多いのでは?と私は考えています。最初から結論ありきではなく、「ゼロリスクは無い」という事実を踏まえて考えてほしいと思うんですよね。それこそ、リスクあるものをすべて拒絶していたら、少なくとも日本で暮らすことは諦めなければいけないですし(笑)。そういう主張には大局観が全然感じられませんからね。この問題を通して、それも養えるかもしれない1冊だと私は思いました。

「基準値のからくり」と「誤解だらけの電力問題」

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教科書に載った「神様2011」

実は最近まで「神様2011」という小説の作品が、高校の国語(現代文)の教科書に採用されていたことを全く知らず、このことについては福島県のある国語教師から話を聞いて知りました。なんでも、この作品で授業をした時に、涙を浮かべたり、泣いてしまった生徒が多かったそうで、「授業で取り上げるには(まだ)難しいかも…」、どうしたものかと考えるところがあるそうです。

神様2011

「神様2011」という作品は、この本の著者・川上弘美のデビュー作品「神様」の続編というか、東日本大震災により引き起こされた原発事故を受けての「改訂版」です。書籍「神様2011」の中には「神様」と「神様2011」だけが収められています。超ざっくりと「神様」のあらすじを書きますと、主人公の「わたし」が、マンションの3つ隣の部屋に越してきた「くま」と近くの川にピクニックへ行って帰ってくる話です。「くま」は動物の熊のことです。で、物語は「悪くない一日だった」で終わります。(書籍版「神様2011」の中で、内12ページの短編ですw)

改訂版の「神様2011」でもあらすじは同じです。最後に「悪くない一日だった」で締めくくられています。違うところは、お話が2ページ分だけ増えていることで、お話が増えているというよりは、記述が増えているんですよね。たとえばこんな感じで。

春先に、鴨をみるために、行ったことはあったが、暑い季節にこうして弁当まで持っていくのは、初めてである。(川上弘美「神様」より)


春先に、鴨をみるために、防護服をつけて行ったことはあったが、暑い季節にこうしてふつうの服を着て肌をだし、弁当まで持っていくのは、「あのこと」以来、初めてである。(川上弘美「神様2011」より)

「神様2011」で記述が追加された部分をわかりやすくするために太字にしました。
なお、この作品を教科書に採用した出版社のコメントが新聞記事にありましたので、あわせてここに紹介しておきます。

■毎日新聞:教科書 12年度検定42点に「東日本大震災」の記述(2013年04月19日)より

「現代文B」で作家、川上弘美氏の「神様2011」を掲載した教育出版の担当者は「震災や原発事故への評価が固まっていない段階で教科書に取り上げるのは難しかった。しかし『震災を風化させたくない』という思いがあった」と振り返る。

「神様2011」は、原発事故を想起させる「あのこと」の後、放射性物質が残る中を言葉を話す「くま」と「わたし」が散歩に出るストーリーで、デビュー作「神様」を震災後に書き換えた作品だ。担当者は「事故後の世界であっても『くま』と『わたし』の優しさなど普遍的なテーマが盛り込まれている。この小説を読んで憎しみを感じる人はいない。高校生にこの作品を味わい、テーマについて考えてほしい」と期待する。

原発事故を遠いところ、それこそ映像や新聞などでしか知らない生徒たちと、比較的に近いところで事故に遭った(実体験としてある)生徒との間には、この作品に対する感受性が違い過ぎるのではないだろうか?と、私も思うところ・考えるところがあります。

実際、教科書にどのような載せ方をしているのかは確認しておりませんが、教科書に「神様2011」を載せるにあたって、その前の「神様」という作品が一緒にないというのはどうなのだろうか?

あと、この作品を授業で取り上げる際には、著者の「あとがき」に触れることも必要ではなかろうか。原発事故が身近なところにある生徒にとっては、この著者のメッセージは必要不可欠のように思います。

震災以来のさまざまな事々を見聞きするにつけ思ったのは、「わたしは何も知らず、また、知ろうとしないで来てしまったのだな」ということでした。
(中略)
2011年の3月末に、わたしはあらためて、「神様2011」を書きました。原子力利用に伴う危険を警告する、という大上段にかまえた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりもむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性を持つものだ、という驚きの気持ちをこめて書きました。静かな怒りが、あれ以来去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから。この怒りをいだいたまま、それでもわたしたちはそれぞれの日常を、たんたんと生きていくし、意地でも、「もうやになった」と、この生を放りだしたくないのです。だって、生きることは、それ自体が、大いなるよろこびであるはずなのですから。 (川上弘美「神様2011」あとがきより)

高校の国語の教科書として「神様2011」の授業展開を考えれば、ストーリーだけでなく、文章の表現としてどうなのか?とか、なぜ「くま」は、「熊」でも「クマ」でもないのだろうか? 主人公の「わたし」は男性or女性?(実はどっちにも取れるw) 「くま」は礼儀正しくて優しいけれど、なぜちょっと怖いと感じるのだろう?など、小説の文脈に沿ってあれこれ考えてみたり、授業でみんなと一緒に話し合ってみる、なんてこともあるかなーとは想像できます。でもこれは、原発事故から遠い地域・人の場合かな、とも思うんですよね。

東日本大震災による津波と原発事故を近いところで体験した生徒の中には、それを経験してない先生や生徒たちと違って、いろいろ複雑なものを抱えています。かくいう私も、ちょっとトラウマというほどではないけれど、自分の中にそれが存在することを認めています。みなさんはもう忘れているかもしれませんけれど、スクリーニング済証の経験などの、当事者性の濃い人たちが受けた、当時の憤りと悔しさ、悲しさ、差別的扱いなどを思い起こさせるには、十分な記述が「神様2011」の中にはあります。

著者が「神様2011」を執筆したのはタイトル通りの2011年。その当時の情報から想像して書いたものだから、ある程度仕方がないところはあるけれど、2014年の現実の状況と照らし合わせると、世界観としては「差があり過ぎるなぁ…」と私は思います。このあたりを高校生が自分の中でうまく処理できるかどうか。たぶん、他県の学校の先生や生徒たちにはない課題が当地の先生たちにはあるでしょうね。

「神様2011」は、書籍としては許せるし、いいかな?(むしろOK!)と判断するのだけれど、これが教科書に載って授業で、となると、私も福島県の国語の先生同様、ちょっと考えてしまいます。本当に複雑なんですよ、こういうことは。。。

原発事故を近いところで経験した生徒たちには、まだ教科書としては早いかな。遠いところの生徒たちと違って、先生たちのフォローに頼る・期待したいところ(負担)が大きいかなぁ、せめて「美味しんぼ」の件がなかったらなぁ……と思う今日この頃です(苦笑)。

書籍の「神様2011」は、本としては、本当にとてもよいものだと思います。むしろ私の好みの本ではありますが、当事者性が濃いゆえに、これは読み物として正直ツライものがある作品です。いまだに、つい無表情・無感動を装ってしまう自分がいます。


神様 2011
神様 2011
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川上 弘美
講談社

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ヒトラーを支持したドイツ国民

かつて日本の副総理大臣が、マスコミが憲法改正の議論を阻止するなら「静かにやろうや」、「(ナチスの)あの手口、学んだらどうかね(笑)」みたいなこと、あるシンポジウムで発言したら「ナチス賛美、けしからん!」的な解釈をされて、マスコミや護憲派の方々から集中砲火を浴びた出来事がありましたが、あれには私、正直ドン引きいたしました。(それはバッシングした側に対して)

ヒトラーを支持したドイツ国民

「ヒトラーを支持したドイツ国民」ロバート・ジェラテリー著(根岸隆夫翻訳)。5年くらい前に一度読了していますが、再び読んでみることにしました。

巧みなプロパガンダによってナチスのヒトラーは、ドイツ国民を騙した・欺いた、あるいは洗脳していったとか、恐怖政治を行ったイメージがあるかもしれないけれど、この本では国民が納得して「積極的に」ナチスを支えていったプロセスが丁寧に書かれています。

ナチス第三帝国の総統アドルフ・ヒトラーは、12年間もドイツ国民の支持を幅広く得て、その維持に力を注ぎました。その功績をザックリ言えば、第一次世界大戦に敗北したドイツを立ち直らせてオリンピックを開催。大型公共工事で労働問題を解決し、高度経済成長を成し遂げました。また、少子化対策や医療の充実、工業も発達しましたから、当時のドイツ国民から見れば偉大な指導者、英雄にも見えたことがうかがわれます。

ヒトラーが宰相就任直前のドイツは、自殺率が欧州諸国と比較して、イギリスの2倍、アメリカの4倍という著しい高さがあり、女性の社会進出にともなう少子化は加速、保守的な人々を不安にさせ、伝統的な家族制度の復活を望む人々が増えていました。また、犯罪率も増加の一途をたどり、メディアではゴシップや政治スキャンダルが報じられる毎日……という、まるで今の日本を見てるかのよう(苦笑)。

議会は小政党が乱立し、政治は迷走を重ね、議会の外では各政党の支持者同士や労働者、デモ隊が暴力衝突を繰り返し、そこに大恐慌が追い打ちをかけて、国民は政治不信。すべての政党と議員を見限っていました。(これがワイマールの時代)

そんな状況下で国民が選べる政党は、選挙のたびに権力闘争に明け暮れる腐敗した既存政党or革命を唱える共産党という二択を迫れ、その時に第三の勢力として現れたのが、躍進してきたナチス(国家社会主義ドイツ労働党)です。ドイツでマルクス主義が好きな人って少ないから(笑)、そうなると第三勢力のナチスに期待が集まるわけで、多くの国民に支持されました。

ちなみに、ナチスを支持したのは男性だけでなく、保守主義の女性、カトリックの女性、それから自由主義の女性までもがナチスの主張に同調しました。ヒトラーを権力の座に就かせたのは、混乱・低迷する社会から、正常な社会に戻したい、国民の切実な願いでした。

* * * * *


この本を読んで、とても驚いたことは、ドイツ国民による「積極的な密告」が行われたこと。実にさまざまな密告例が紹介されています。たとえば……、

  • 長年連れ添ったユダヤ人妻と不仲から、彼女がヒトラーの悪口を言ったと密告→妻はアウシュヴィッツ送りとなった。

  • ある既婚女性が、隣人の女性が「母親としての義務」を省みず、ポーランド労働者の男性と情事にふけっていると密告→その女性は収容所送り。

  • ある少女が物知りな弟を密告。取り調べで少女は「弟を訴えたのは、いつも彼が威張っていて、彼の自説がいつも正しいとは限らない事を示したかったから」と答えたという。

……うーむ。なんだかなぁ。。。
一言でいうと「利己的が過ぎる」というか、そんな次元の話じゃないよねぇ。。。

よく「ゲシュタポ(秘密警察)」は積極的に国民を監視した怖い組織とかって教えられていたけれど、実際のところは、毎日このような密告にゲシュタポが忙殺されていたという……。

今で言うと、Twitterや各種SNSで、気に入らない発言があったらゲシュタポに報告してアカ凍結とか、巨大な釣り針を仕掛けて釣り上げる・晒すみたいなもので、それで容易く収容所送り、みたいな笑い話では済ませられないこと。これは頭を抱えてしまいます。。。

ゆえに、この「密告」にドイツ国民が積極的参加することにより、ヒトラーの独裁体制は盤石にもなったということが本当のところであって、権力者が強権をいつもブンブン(?)振り回して、「恐怖政治」なんて言葉でいわれているイメージのファシズム(全体主義)とは全然違っていたことは、この本を読んで初めて知りましたね。

で、ドイツの場合は国民が、自ら「積極的」に権威主義(この場合はナチスとヒトラー)に傾倒することだったとは。プロパガンダとか情報統制で~じゃなくて、それはあくまでサブ的手法だったのか~。

なお、この本では(お値段が5000円もすることもあってか)、ナチスが築いた積極的な市民参加による「密告」がヒトラーの独裁制を基礎付けられた理由が書かれています。人が抵抗して団結・連帯できないようにするための方法論も語られており、「これはちょっとブログでは書けないわ~」という、チキンな私としては、もう「怖いわ、コレ…」的な記述もありました。(よって、これは自主規制で割愛ですw)

* * * * *


現代では、敵対者にレッテルを貼るために、ヒトラーやナチスという言葉が使われます。たぶんこれは、相手がヒトラー的かどうかとか、ナチス支配時代的なイメージで(勝手に想像して)絶望して当てはめているのだろうけど、それは使い方として誤りというか、あんまり意味ないんじゃないですかね?

この本は歴史研究の類の本だけど、ここには最悪の選択をしないための様々な示唆に溢れています。当時に何が起きて、今は何が違うのだろうか? 誰かに扇動されず冷静に今を考える必要がある昨今、あらためて読んでみて、この時代をしっかりと学ぶ必要があるよなぁ……と、この本で描かれる様々な人びとの「密告」のおかしくも残酷な営みの数々をあらてめて目に通して思いましたね。もう、本当に現代の日本みたいで。


ヒトラーを支持したドイツ国民
ロバート・ジェラテリー
みすず書房

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日本の集団的自衛権に思うこと

今年は「仏教」と「平和主義/平和構築」に関わるの本や資料を読むことが多い私です。これは特にテーマを決めてこうなったわけじゃないのだけれど、気がついたら仏教の書籍は3冊、平和主義/平和構築関係の書籍は5冊に目を通しておりました。

このほか、図書館でコピーした資料やインターネットからダウンロードして入手したPDF資料などにもいろいろ目を通していますから、今年は考えるための情報や材料は多いですね。ただこれは、頭の中で整理できているか否かは別だけど(笑)。
(下の写真はその中の5冊をチョイスして撮ったもの)

今年の読書2014

ちなみに、先にここで平和主義/平和構築「関係」と書いたのは、さらに内訳として分類すると、平和主義の書籍1冊と平和構築(紛争解決)の書籍4冊。私の中でウェイトとしては、理念や哲学としての平和主義ではなく、現実的かつ具体的な紛争解決と紛争回避のための平和構築論に大きくシフトしている昨今です。

* * * * *


そんな中、先日の2014年7月1日に日本政府が集団的自衛権の行使(保持)を閣議決定しました。これはあくまで、わが国でも集団的自衛権を使えるようにする、という方向を定めただけのことですから、まだ(法律としては)この手段は使えない・認められていない話です。(なので、これから集団的自衛権が使えるようにするための法改正案を作り、これを基に国会で議論・審議される運びになります)

これについては、ぶっちゃけた話、私はどうでもいいと言いますか、集団的自衛権を持つこと、いつでも使えるようにすることは、別にいいんじゃない? 別に構わないけどさ、という立場です、今のところは。(そもそも論として、何を今さら…という気もしますけど)

ただ、かつてと同じように「自衛隊」を生み出した憲法の解釈変更だけですと、(そもそもの話、自衛隊が今存在しているのは、昔の憲法解釈変更による結果。そして今日に至るですし、)さらに憲法を歪めることになるんじゃないの? それだとますます憲法9条が存在する意味はないから、憲法を部分改正するか、それこそ作り直すくらいのことをやらなければ筋が通らない・整合性が取れないのでは?と思っています。

つーか、解釈変更などと、ここまで尊重されない憲法なんて、もうそれは憲法じゃねーよ(笑)。で、尊重されないのはなぜかと考えると、それは今の憲法が、当時のアメリカの、よかれと思っての見解と都合で作ったものであって、当時はそれでも良かったけれど、時代が移るに従って、アメリカの都合で解釈が変わる(アメリカから要求されることが変わる、その影響を受ける)憲法ってどうなのだろーか?と思うところがあるからなんだよね。

アメリカが日本国憲法(憲法9条)を作っておきながら、東西冷戦下で起こった朝鮮戦争、最近ではイラク、インド洋、ソマリアと、日本に支援(自衛隊派遣など)を要求し、集団的自衛権をすでに行使させている現状を見れば、なんだかな……と思うわけですよ。今回の閣議決定以前よりもっと昔に、有言無実化されているわけですから。(多くの日本国民が、それをわかっていない・気づいていないんだよねぇ……)

※日本人が、これを集団的自衛権の行使として捉えていないのは、「国連の決議に沿って」支援している=憲法で制限していることとは別と考えているからでしょうけど。(=国際社会が認めれば集団的自衛権はOKという解釈=すでにこれは実績あるってことじゃね?)

※報道が「わかりやすい」として例示する集団的自衛権の図にも、まやかしはあるのですよ。その最たる例が以下記事の図解。
■やさしい言葉で一緒に考える 自衛の措置(朝日新聞デジタル)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11221914.html

「個別的自衛権/集団的自衛権/集団安全保障」と分けて図解していますが、国連決議による「集団安全保障」も(国連加盟国による)集団的自衛権の行使ですから、構図・概念としては別ではないのでは?(旗振り役が国or国連かの違いだけで)

* * * * *


7月1日に日本政府が集団的自衛権の行使(保持)を閣議決定した後、カウンター行動として、いわゆる「護憲派」の人たちが、いろいろと声を上げています。
ここでは以下記事を引用いたしますが、

■「行使は絶対に許さない」=大江健三郎さんら訴え-東京


集団的自衛権行使をめぐる閣議決定を受け、ノーベル賞作家の大江健三郎さんらが1日夜、東京都内で記者会見し、「閣議決定は許しても実際の行使までは絶対に許さない。きょうはその誓いの日だ」と抗議の声を上げた。

会見したのは、大江さんら「戦争をさせない1000人委員会」のメンバー。冒頭に「集団的自衛権の行使は中立の立場を捨てることで、過去の戦争の多くが集団的自衛権を名目に正当化されてきた。憲法の理念を権力者から取り戻さないといけない」などとする声明を発表し、今後も反対運動を続ける意向を示した。

閣議決定に大江さんは「平和憲法と民主主義が自分の支えであり、打ちのめされたような気持ちだ」と表情を曇らせた。訴えは数十分におよび「安倍晋三首相は憲法への畏れを持たない珍しい人間だ。集団的自衛権がもとで国内で起きるテロなどへの想像力も欠けている」と批判した。

また、作家の落合恵子さんは「立憲主義の息の根が止められようとしている。権力者の戦争ゲームに付き合わず、国民は子供の笑顔を思い浮かべてほしい」とアピール。法政大の山口二郎教授は「さまざまな概念を持ちだし、国民を当惑させたままで閣議決定に踏み切った。不誠実極まりない」と訴えた。

これにもあまり頷けないんですよね。正直な気持ちを言えば、「護憲派もダメだなぁ。この人たちには任せられないなぁ……」というもの。特に納得できない部分は、「集団的自衛権がもとで国内で起きるテロなどへの想像力も欠けている」と批判したところ。すでに集団的自衛権を行使している日本が、一体何を言っているのですか?といった感じ。この人も、その認識がなかったのか……と残念に思います。

もうすでに日本は、テロ攻撃の対象国の1つじゃないの?(優先順位は低いと思うけど)、アルジェリアで起こった人質拘束事件で日本人犠牲者が出たことは考慮しないの?(日本人も米国人同様に見られているよ)

話がちょっと飛躍するけど、集団的自衛権を持つべきではない・行使すべきではないという考えは、例えば、日本と全く関係ないアフリカの地域の内戦で、罪もない一般市民が虐殺されるのを、日本としてはどう対峙するつもりなのだろうか?

「権力者の戦争ゲームに付き合わず、国民は子供の笑顔を思い浮かべてほしい」と言いながら、内政干渉になるからと、他国・他地域で子どもの笑顔がなくなることには介入しないの? 国連決議がないと正当性が示せないから、それまでは見殺しもやむなしってこと? それとも、国連決議(国連自体)による集団的自衛権の行使も認めないってこと?

今の世界情勢の中で、単純に物事を(狭く・限定的に)考え過ぎなんじゃないですかね? 憲法9条がノーベル平和賞の候補になったみたいだけど、そんな名誉や権威よりも、現実的にどう戦争を回避するか、戦争中であれば、どうやって収束させるのか、具体的な方法論をおろそかにしていませんかね? 理念や哲学も大事ですけれど。

集団的自衛権は「国家の安全保障」の話だけど、日本はそろそろ本気で「人間の安全保障」も議論した方がいいんじゃないですかね。これは同盟とか陣営なんていう「どちら側」という話じゃありませんし。両極端な二項対立だけで報じたり、議論すること・されることが、正直かなーり嫌になっている私です(苦笑)。


※集団的自衛権については、紛争解決の現場の声も併せて読んで知ってほしい、ということで、以下の2冊を私としてはおすすめしたいところです。

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阿川佐和子「聞く力」

読み始めた当初は、著者の文章(文体)が私には合わなかったのか、その上、文章なのに話が途中で脱線する(?)など、私にはとにかく「読みにくい」印象の本でありました。

阿川佐和子著「聞く力」

阿川佐和子著「聞く力-心をひらく35のヒント-」
まるで著者本人が目の前でしゃべってくれているような、不思議な感覚になる本です。ここ2、3ヶ月間は手元に置いて、少しずつ繰り返し読んでいます。

「聞く力」というタイトルから、ビジネス書のような実践的な何かを期待して読むと、100%肩透かしを食います(笑)。この本は、「週刊文春」で20年以上続く連載対談や、TVタックルなど討論番組でのエピソードと、著者がそこから学んだ経験や教訓が詰まっています。中でも、聖飢魔IIのデーモン閣下への質問話や、コピーライター糸井重里さんの東日本大震災のエピソードが印象的だったかなー。

この本での著者の話は、「私って、無知でドジで笑っちゃうでしょ(笑)。でもね、このとき○○さんは、こんな素敵な話をしてくれたんですよ(笑)」という感じで話が進みます。文章だけど、“おしゃべり”なんだよな、この本は(笑)。

本を読みながら、著者の「聞く力」は、アンタの魅力そのものだよ(笑)と、何度も本(著者?)にツッコミを入れたくなる不思議な本でもありました。


聞く力 心をひらく35のヒント (文春新書)
文藝春秋 (2012-09-20)
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