昨年6月、靖国神社へ初めて足を運び、今年の1月になってから、念願だった同神社の史資料館「遊就館」をようやく見学することができました。
毎年のように首相をはじめ、国会議員の「靖国参拝」がクローズアップされるのだけど、何を問題として捉え、懸念を表明したり、批判をしているのだろうか?と疑問を持ったことがキッカケでここを訪れたのです。
まぁ、問題視する・される、およその見当は付いているのだけれど、実際に靖国神社を見たことも行ったこともないのに、その賛否を語ったり、その姿勢を決めてしまうのはどうなの?とか、他人の意見や批評で判断するのは、特にこの件ではそれって「無責任だよなぁ…」と思ったからなんですよねぇ。。。
※ちなみに、昨年6月に訪問した靖国神社を初散策した感想・印象は下記を参照。
■東京・靖国神社を初散策(2014/6/30)
http://hamayu.cocolog-nifty.com/column_diary/2014/06/post-0f49.html
靖国神社の歴史は、幕末から明治維新にかけての「大変革」の過程において、不幸にも国内を戦場とした戊辰戦争が起こり、明治天皇がこの戦いで多くの尊い命が失われたことに深く心を痛めたことに対して、その戦いに勝ち残った時の政府が、日本という「国家」を創設するために一命を捧げられた人々の霊魂を鎮めようと、東京・九段下に“東京招魂社”を創建したことに始まります。
その後、明治天皇の命によって、日本全国の「招魂社」の社格は「神社」に昇格・別格官弊社に列記され、東京招魂社は「靖国神社」と改名。以後は西南戦争、日清戦争、日露戦争、そして太平洋戦争と、近代国家日本の礎になった殉難者・戦死者の霊魂を鎮め祀っています。
なお、ここに祀られる霊魂は、基本的に天皇のために戦って亡くなった人々とされており、幕末の志士では吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作などは「靖国の神々」として祀られていますが、明治維新(国家創設)に大きく貢献した西郷隆盛は祀られていません。
これはつまるところ、西南戦争は、明治政府と意見が対立した西郷隆盛らの薩摩藩士(鹿児島県の士族)による内乱・内戦であり、「天皇の命により、国家の危機にその命を捧げた人ではなく、また国家の忠臣でもない」という理由・基準によるもので、その結果、西郷隆盛は祀られなかったというわけです。(祀られるための要件は、国家に対する功績の有無ではないということですね)
さて、前置きが長くなりましたけど、これから遊就館の展示について触れます。ここは靖国神社の歴史観に沿って、さまざまな資料が展示されています。
遊就館の展示内容は、そもそもの竣工・開館が東京招魂社の時代ではなく、靖国神社に改名されてからの時のせいか、西南戦争あとの日清戦争、日露戦争、満州事変、盧溝橋事件から始まった支那事変、大東亜戦争(第二次世界大戦/太平洋戦争)からの敗戦・終戦までの内容が、非常に細かく解説されており、資料も多過ぎるくらいの充実ぶりです。
靖国神社の創設と誕生を考えれば、日本が対外的に行った戦いはすべて正当である、という肯定の精神に貫かれている展示内容は、特に不思議を感じたり、違和感を覚えるものはありませんでした。これは「そういうものだ」という先入観や前提が、すでに私の中にはあったからでしょう。現代までの日本という国家の歩みを靖国神社は否定する立場にない、ということを展示内容に感じました。よく言えば、ありのままを包み隠さずに見せています。
あと、展示物の多さに関して、私が気になったというか、とても感心させられたことは、たくさんの人の協力があったからこそ、これだけ多くの展示物が集まったのだなぁ、ということ。ゼロ戦などの兵器が展示されていたりしますけど、割れたヘルメットなどもあって、多くは過去の戦争を肯定したり美化するために、遊就館に提供された資料じゃないことがうかがわれます。
まぁ、展示されている内容が、どうしてもパッと見た目として、「戦争・戦史博物館」に見えてしまうところは否めないのではありますが。。。
遊就館の展示は、過去の戦争を美化・賛美するものであり、首相や国会議員の靖国参拝もまた、過去の反省もなく、それを肯定するものである、というような意見を耳にしたり、あるいは目で見たりすることがあります。
特に首相の靖国参拝は、中国や韓国が激しく反発し、米国政府が「失望」を表明したほか、欧米のメディアも厳しく批判し、こうした海外の反応を受けて、国内でも外交や経済への影響を懸念する声を発する一方で、逆に反発する人たちの存在もあります。
当時の靖国神社が、国民を戦争に動員するシステムの頂点にあったことは私も認めるところです。国家のために命を捧げて死ねば、靖国神社に祀られて、天皇陛下が参拝して下さる。これが日本国民として最高の名誉であり、喜びである――そのように(教育によって)信じ込まされていたことでしょう。
でも、当時の靖国神社が、国民を戦争に動員する酷い仕組みであることは理解できますが、A級戦犯の合祀や首相の靖国参拝に関しては、結論として、どちらかというと肯定的に捉える立場に位置する考えを今回で持ちました。なぜなら、過去の戦争史観のことよりも、私は「招魂社」と「神社」の成り立ち・役割を無視できなかったことが大きかったからです。
ことさら「A級戦犯を祀ること」は、それを「崇め祀ること」、すなわち「崇拝」であると強調され、これを問題視・危険視されているようですが、最初の方で(さらっと)述べているように、日本の神社(神道)というものは、他の宗教施設とは違い、祀られる対象である神は、崇めるよりも前に、まずは「崇り(たたり)を封じる」ことが優先され、それを目的として建てられる日本古来の政治的な施設です。他国の宗教とは神に至る道・崇められるまでのプロセスが違います。
靖国神社の成り立ちは、福岡県の太宰府天満宮に似ています。違いがあるとすれば、靖国神社は霊魂の集合体を、太宰府天満宮は菅原道真公の霊魂を祀るだけ。
靖国神社のA級戦犯の合祀を問題にされる人の中には、A級戦犯の「分祀」を主張します。ですが、神社(神道)には外科手術的な「分祀」なる方法は存在しません。仮に都合よくA級戦犯だけを分離できても、靖国参拝を批判する人たちは「分祀すれば(取り除けば)参拝してもよろしい」とは言っていないように思えます。
靖国神社じゃなくても、千鳥ヶ淵でいいじゃないか、という人もいます。中には、「分祀=千鳥ヶ淵」の人もいますけど、千鳥ヶ淵は身元が分からなかったり、引き取り手のない戦没者の遺骨等が納められている戦没者墓苑です。「神社」は「お墓」ではありません。(この違いの意識・認識が、そもそもない上での批判や意見のように思います)
また、明治7年に神田明神で行った平将門命を将門神社に遷座した例を「分祀」として主張される方がいるようですが、ご神体にあたる霊魂の依り代(霊代/みたましろ)が、それぞれに分けられて祀られていた神田明神の場合と、1つの依り代に霊魂が「合祀」されているとされる靖国神社の場合はケースが違います。(当時の神田明神の合祀は2柱二座制/現在は3柱三座制ですが、靖国神社のA級戦犯の御霊を含む合祀は246万6584柱一座制です)
つまるところ、靖国神社に対するA級戦犯の分祀論というものは、神道という宗教に対して、合祀された1つの依り代から特定の霊魂だけを抜き出す技術や儀式をあらたに作れ、という要求・話であろう……とも私は理解、認識しています。
さて、仮に靖国神社から分祀できたとして、あらたに千鳥ヶ淵か、あるいは、ほかの場所の「神社/社(やしろ)」に霊魂を移ってもらう、あるいは神社に祀らず、別の政府慰霊追悼施設を作るとしましょう。「A級戦犯が~」という人たちは、靖国神社でなければ(天皇や国家のために命を落とした戦没者の鎮魂のために首相が手を合わせても)納得してくれるものなのだろうか? という疑問も残ります。
戦争史観だけであれば、私も納得・妥協はできたでしょうけれど、そもそもの神社の成り立ち、他国にはない日本固有の宗教・信仰文化であることを考慮すると、それには容易に同意できないんですよねぇ。
「荒魂を鎮めると和魂になる」という考え方・捉え方が、日本における信仰の全般には流れています。山岳信仰などの自然崇拝や、先祖供養の先代崇拝もベースは同じで、ひとつの霊魂・対象(神)には大別して、相反する2つの側面があるとされています。
他の宗教で似たような概念は、たとえば「堕天と復天(昇天)」がありますけど、その考え方に当てはめると、「荒魂は悪であり、和魂は善である」という論理・認識で、(単純に)悪を崇拝・信仰するのは理解し難い、ということかもしれません。神社としては「崇拝」ではなく「鎮魂(慰霊)」のお祈りやお祭りの方が重要なのですよね。。。
(他国・他文化では、祀られる神様=よい神様なんだろうけど、日本の神社における神様は、祀られる→害を出さないように鎮める→益をもたらす神様に変化する、なんだよねぇ……)
靖国神社は、かつて国民を戦争に動員したシステムの頂点・象徴として批判しやすい・されやすいとは思いますけれど、戦争史観やA級戦犯(東京裁判)、海外の反応を受けて、あるいは外交や経済への影響を懸念する声だけでなく、「神社」という文化や信仰に対する視点と考察、あと、「これから」のことを加えた上で、議論が進むといいなと思っています。話題になる靖国神社の話って、それらがすっぽり抜け落ちていて、ちょっと歪んだ感じがしています。現在は普通の神社なんですけどね。
さて、(A級戦犯の)合祀とか分祀については以上のような見解の私ですが、首相の靖国参拝については、たとえば中国政府の主張を借りますと、「靖国神社は戦死者を“英霊”として祀り、戦争自体を肯定的に捉えている。そこに公的な立場にある者が公式に参拝するということは、つまり日本政府としては、靖国の歴史観を公的に追認しているのでは?(というより、追認しているよね?)」というようなことは、まぁ、そういう部分・解釈はあるよね、という感じです。
ただ、「戦死者を“英霊”として祀る=戦争自体の肯定である」という論理が私にはよくわからないのだけど、少なくとも「靖国神社は戦争自体を肯定的に捉えている」という主張は否定してもよい部分だと思います。なぜなら、遊就館の展示内容は、歴史・史実は肯定的に捉えているけれど、戦争自体を肯定するものではないからです。
それから、私的には「戦死者を“英霊”として祀る=戦争自体の肯定」という論理で気になるところは、ここでいう「英霊」という言葉が、諸外国に伝わる時に、どのように翻訳されているの?という点です。ひょっとして、私たちがイメージする「英霊」とは違うものになっていないだろうか?
実際に「戦死者を“英霊”として祀る」を英語圏では「戦死者を“軍神”として祀る」と伝えていたりするものだから、そのあたりの誤解(誤訳?)も、この問題を大きくすることに手を貸しているのかもしれません。(英霊と軍神は違いすぎる……orz)
もしそうであるならば、日本の首相が「靖国神社には大変な誤解がある。靖国には戦争のヒーローがいるのではない。(私が参拝する理由は)ただ、国のために戦った人々に感謝したい思いがあるだけだ」と、ダボズ会議でそのように訴えた理由が理解できます。
「英霊を祀る=A級戦犯」のイメージが強い靖国神社の神様ですが、その神様を構成する内訳を遊就館の展示で見てみると、「軍神」や「戦争の神」という言葉で翻訳されるのは不適切だよなぁ……と私は思いましたね。
私たちが靖国神社に参拝して、遊就館の展示を見たからといって、過去の戦争を美化したり、賛美する人は少ないんじゃないかな、と個人的には思います。また、すべてを無条件に肯定する人は皆無じゃないですかね。特に遊就館を訪れて、靖国神社が語る歴史を見る人は、正確な知識と情報を得ようとして見学に来ている人がほとんどのように見えました。
遊就館の展示資料は非常に多く、これをじっくりと真面目に1つ1つを見るとすると、丸1日は潰れてしまうのではないだろーか? 私は駆け足気味の見学で3時間くらい館内にいたけど、すべてをきちんと見た気が全然しません。
遊就館は、いつか再び時間を作って訪れたい史資料館の1つになりましたね。
世の中の声や空気ではなく、本当のところはどうだったのか、私は知りたいだけですし、自分自身で選択したいだけだから、その判断材料の1つという感じで。よい博物館だと思いますよ。
最後に、これは靖国神社と遊就館に限ったことではありませんけれど、こういった施設に対して「反省がない」とか「反省の色が見えない」と感じる人がいます。私の感覚からすると、十分に過去を振り返って考えることができる施設であると評価していますが、おそらく「反省がない」と言ってしまうのは、その施設自身の内面に対して、それが向けられていない、と感じるからだろうと想像しています。
つまり、靖国神社と遊就館は、ここを見る者、訪れる者に対して、過去を振り返って「反省を促す場」としての評価と、靖国神社と遊就館の姿勢や態度に問題がある、それに気がつかないのか、という「苛立ち」の評価があるのだと理解しています。「ここは過去の戦争を美化している」という人は、きっと後者の評価が強いのでしょうね。
現代における靖国神社の「ややこしさ」というのは、坂本龍馬の墓所は京都にあるけど、霊魂は靖国の神々の1つとして祀られていることや、第二次世界大戦のA級戦犯として法務的に処刑された人たちの(各故人の骨壷が納まった)お墓は日本国内には存在しないけど、霊魂だけは靖国の神々として祀られて、でも、位牌だけはカトリックの総本山、バチカンのサンピエトロ大聖堂にあることなどに集約されています。
こういうことって、異文化・異教徒の外国人のみならず、日本人でもワケわからないって人、たぶん多いとは思います。でも、この神社の由緒を忌み嫌わずにそのまま受け止める世代の人たちがいることを、私も見ていて感じるところです。その存在は神社と一緒に認めていいと思います。
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